この項目「即位紀元」は翻訳されたばかりのものです。不自然あるいは曖昧な表現などが含まれる可能性があり、このままでは読みづらいかもしれません。(原文:en:Regnal_year Regnal year
)即位紀元(そくいきげん、Regnal year)は、王国や支配を表すラテン語のregnumから来た君主の在位年である。即位紀元は基本的な年数としてではなく序数詞として時代を見ている。例えば君主は第1年や第2年、第3年、第4年というようにできるが、支配の第0年は存在し得ない。
この古代の紀元制度を現代の時間の計算に応用することは、0年を含むが、3000年紀がいつ始まるかという論争に繋がることである。即位紀元は西暦紀元や神武天皇即位紀元、主体年号といったもののような「無限の時代名称」と比べて「有限の時代名称」である。
初期の使い方「エジプト史年代学(英語版)」も参照
古代では暦は在位中の君主の在位年数の期間として数えられた。長い時代を計算するにあたっては王名表(英語版)が必要であった。この手の最古の計算はシュメール王名表に見られる。古代のエジプト史年代学(英語版)は即位紀元も使って年代を示した。ゾロアスター教の暦(英語版)は3世紀のアルダシール1世の改革を承けて即位紀元と共に機能した。
プトレマイオスの王名表は天体現象を計算する方法として古代の天文学者が使った様々なバビロンやペルシャ、マケドニア、エジプト、ローマの君主の在位を計算するリストである。リベリアンカタログ(英語版)は宗教史上の初期の事件を計算するのに使われた初代教会の教皇の同様のリストである。
漢字文化圏の元号詳細は「元号一覧 (中国)」、「元号一覧 (朝鮮)」、「元号一覧 (日本)」、および「元号一覧 (ベトナム)」を参照
漢字文化圏において即位紀元は、一般に元号使用が始まる以前に年数の記録のために使われた。中国においては継続的な年号使用が、漢の武帝の治世である紀元前140年に始まった[1][2]。その前は年数は通常皇帝の即位年数として記録された。
紀元前140年より、元号は在位年を数え、特徴付ける目的で称号として使われた。以降、元号は2000年以上に渡って中国の皇帝が統治する中国大陸で使用され、辛亥革命によって中国の帝政が終焉を迎えた後も、立憲君主制の元に皇室を頂く日本で使われている[3]。
蘭芳公司紀元や台湾民主国紀元、民国紀元は伝統的な紀元制度から作り変えられた制度であるが、実質的には紀元ではない。孔子紀年や主体年号はそれぞれ思想家や永遠の主席(英語版)の誕生年を基礎としている。黄帝紀元や檀君紀元、神武天皇即位紀元は初代君主の在位年数で計算している。
中国文化の影響の結果として他の漢字文化圏(朝鮮、ベトナム、日本、琉球)の政体も元号の概念を受け入れた[2][3][4]。
例えば政治的な正当性を主張したり否定する手段として、過去の年号が改めて使用されることがある。この例として、明王朝の初期の政変・靖難の役以降の元号の混乱が挙げられる。明王朝の初代皇帝・朱元璋の四男・朱棣は甥である2代目皇帝・建文帝より帝位を奪い、3代目皇帝・永楽帝として即位すると、即位年である1402年を洪武35年(永楽帝の父である初代皇帝・朱元璋の在位35年目)として示した例がある。朱元璋は実際は1398年に崩御しており、1398年から1402年までの建文帝の短い在位期間は公式の記録から排除された。しかし時として依然としてこの手の年号は使われた。三国時代の魏の元号「景初」は3年で改元されているが、日本では景初四年(240年)の銘がある銅鏡「三角縁神獣鏡」が発見されている[5]。唐の元号「広徳」は2年で終了しているが広徳4年(766年)、あるいは「建中」は4年で改元された元号ながら建中8年(787年)の記述が西域の墓や文書で発見されている[6]。クチュルクは年号を変えなかった[要説明]。
明が滅亡した後、李氏朝鮮は依然として明王朝最後の元号・「崇禎」を使い、台湾の鄭氏政権は明の皇族による亡命政権「南明」の最後の皇帝・永暦帝の即位紀元を使い[7]、従って清の正当性を否定し、引き続き明への忠誠を示した。
明清交替の混乱期、現在の四川省で張献忠が興した「大西」は元号を使わずに干支を使った。華僑は龍飛や天運を使った[8]。
中国「中国暦」も参照
年号(英語版)は紀元前140年から使われた。以降、1500年近くの期間は、一人の皇帝の在位中に数回の改元が行われていた。だが1368年、明王朝の初代皇帝・朱元璋は一世一元の制を定め、皇帝一人の在位期間中は改元を行わない前例を作り、以降の皇帝は崩じたのちに成祖、神宗といった廟号以外に「永楽帝」「万暦帝」と、在位期間の元号を冠した称号で呼ばれるようになった。この紀元法は清王朝の成立後も踏襲され、1912年まで各皇帝の在位中は一つのみの元号が使用され、死後はその元号が諡号となり、年号が即位紀元と同義になったことを意味した。現在、中華人民共和国では元号は使用されていないが、辛亥革命によって中華民国が興った年・1911年を元年とした民国紀元が台湾で使用されている。
日本「日本の暦」も参照
日本の公式な制度(元号)は、天皇の皇位継承の年を元年として年数を数えている。この制度は645年に制定された日本最初の元号「大化」をはじめとして散発的に使われ、701年以降は現在、2023年に至るまで継続して使われている。1867年までは各天皇の在位期間には数回以上の改元が行われていたが、1868年の一世一元の詔により、1868年から各天皇の在位期間は一つのみの元号が使用され、崩御のちは在位期間の元号が諡とされている。
現在の天皇・徳仁は父・明仁が高齢と悪化する健康状態により退位した後の2019年5月1日に皇位を継承した[9]。元号は令和で徳仁が皇位を継承する1か月前の2019年4月1日に日本政府から正式に発表された。従って2019年5月1日が令和元年の始まりと考えられている。
先代の天皇・明仁は平成が内閣から即位紀元の名称として布告されると共に父・昭和天皇が崩御した当日の1989年1月7日に皇位を継承した。従って1989年は平成元年に相当する。
近現代日本の元号(1868年から)グレゴリオ暦元号天皇
1868年明治明治天皇(睦仁)
1912年大正大正天皇(嘉仁)
1926年昭和昭和天皇(裕仁)