印南高一
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生誕
1903年明治36年)4月30日
長野県飯田市
死没2001年平成13年)12月19日
別名印南 喬 (いんなみ たかし)
出身校早稲田大学文学部英文科
職業演出家大学教授
著名な実績演劇活動、演劇研究
配偶者一般人
子供娘5人
公式サイト ⇒財団法人 逍遙協会
早稲田大学坪内博士記念 演劇博物館

印南 高一(いんなみ こういち、1903年4月30日 - 2001年12月19日)は、日本演出家演劇研究者(大学教授)。印南 喬(いんなみ たかし)の筆名がある。本名の印南高一に、「いんなみ たかいち」のルビを振る著書もある。

長野県飯田市出身。印南は同郷の先輩河竹繁俊を介しての、坪内逍遙の孫弟子である。財団法人逍遙協会理事を40年間務めた。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館の設立初期から、また坪内が創設した早稲田大学文学部(坪内の当時東京専門学校)に新設された芸術科の設立初期から関わり、半生を奉職した。

演劇の研究分野は東洋演劇をはじめとして、日本、西洋の古今の演劇におよぶ。演出においては、坪内逍遙のページェント(野外劇)運動およびヨーロッパの「音と光」のページェント手法を用いた、シェイクスピア演劇の前衛的な活動などをした。
来歴

1903年明治36年)4月30日長野県飯田町(現・飯田市)に、印南家の長男として誕生。

1918年大正7年)3月、旧制飯田小学校(旧制小学校)卒業。

1923年(大正12年)3月、旧制飯田中学校卒業。飯田町から2の市田村(現・高森町)にある小学校で1年間の代用教員を依頼され、高等科1年生を受け持つ。

1924年(大正13年)4月、第二早稲田高等学院入学。

1926年(大正15年)3月、第二早稲田高等学院修了。

1926年(大正15年)4月、早稲田大学文学部英文科入学。専攻は演劇映画評論。

1929年昭和4年)3月、早稲田大学文学部英文科卒業。卒業論文はシェイクスピアの先駆クリストファー・マーロウ研究。

1929年(昭和4年)4月、前年に新設された早稲田大学坪内博士記念演劇博物館にて主事就任。

1931年(昭和6年)、日本国外務省満州鉄道の要請により、演劇事情調査員として朝鮮[1]、旧・満州[2]蒙古中国に同年以降数回の渡航。

1946年(昭和21年)5月、演劇博物館の主事を退任。早稲田大学文学部非常勤講師就任。

1948年(昭和23年)、早稲田大学文学部に芸術科(演劇科・美術科)が新設され、河竹繁俊の推薦で同年4月、早稲田大学文学部専任講師就任。

1953年(昭和28年)4月、早稲田大学文学部助教授就任。

1957年(昭和32年)4月、早稲田大学文学部教授就任。第一文学部(当時)、第二文学部(当時)、大学院を含め1週間に24時間受け持つ。担当講義は演劇学、映画学、東洋映画など。

1960年(昭和35年)、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館の副館長に就任。

1962年(昭和37年)、演劇博物館副館長を退任し、演劇博物館の協議委員に就任。財団法人国劇向上会(財団法人逍遙協会の前身)理事就任。

1963年(昭和38年)、早稲田大学より演劇・映画の海外研究員としてフランスイギリスギリシアローマ等のヨーロッパに渡航、半年間の遊学。

1974年(昭和49年)3月、古希を以って早稲田大学を定年退職。その間、演劇専攻科主任教授、文学部長を歴任。財団法人逍遙協会(旧・財団法人国劇向上会)の理事はその後も継続。1990年(平成2年)前後に理事長を務め、その後は終生理事を務める。

2001年平成13年)12月19日、永眠。享年98。

演劇活動

1950年(昭和25年)頃から、サロン演劇を提唱。加藤精一坪内逍遙の文芸協会員)、上山草人らとともに劇団運命座を結成した。運命座は、劇場・舞台を使用せず、家庭の座敷、庭、サロンで上演する劇団である。『ハムレット』『ファウスト』『大隈重信』等を十数回上演した。

1959年(昭和34年)、逍遙祭に因み、熱海海藏寺にある坪内逍遙の墓前で、坪内のページェント(野外劇)運動を継承した『熱海ページェント』を実演し、NHKが全国中継をした。出演は加藤精一、上山草人夏川静江加藤道子松竹歌劇団他。

1959年(昭和34年)、早稲田大学記念会堂(戸山キャンパス)でページェント手法の『ジュリアス・シーザー』上演。四面舞台。出演は夏川大二郎夏川静江加藤道子他。

1962年(昭和37年)3月29日、東京体育館での日本俳優協会主催の俳優祭[3] にて、河竹繁俊監修、市川猿之助演出、坪内逍遙翻訳による『ジュリアス・シーザー』の脚本を担当し、NHKが録画放送をした。出演は、歌舞伎役者劇団新派、劇団新国劇の総出演。大矢市次郎(ジュリアスシーザー役)、八代目 松本幸四郎(ブルータス役)、八代目 市川中車(アントニー役)、霧立のぼる(ポーシャ役)、伊志井寛(予言者役)、三代目 市川左團次(リューシリヤス役)、七代目 中村芝翫(フレービアス役)、二代目尾上九朗右衛門(カスカ役)、十代目 市川高麗蔵(シンナー役)、十六代目 市村家橘(メデラス役)、九代目 市川八百蔵(ライゲリヤス役)、五代目 市川九蔵(パブリヤス役)、三代目 市川猿之助(シーザーの従者役)、二代目 中村芝鶴(ナレーター)他。

1966年(昭和41年)、イイノホールおよび早稲田大学大隈講堂にて、『リア王』演出。

1968年(昭和43年)7月、早稲田大学大隈庭園を舞台として、大隈講堂のベランダや時計塔を使い、「光と音」のページェントによる「光と音の交響詩」と銘打った『ハムレット』を一夜上演・演出。役者は登場せず、声と音を録音しておき、四方に設置した隠しマイクで流し、夏の夜の庭園が光に照らされ、声と効果音が時計塔などから響いた。


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