占田・課田制
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占田・課田制(せんでんかでんせい)は、中国西晋代に行われた土地制度。
概要

占田・課田制に関しては史料が極めて少なく、その制度内容・実態に関しては判然としない。現在の所、史料から確実なこととしては

16歳から60歳までを正丁とし、13-15歳及び61-65歳を次丁とする。

男子一人に占田70畝(約2.4ヘクタール)、女子には30畝(約1.05ヘクタール)。丁男(ていだん。正丁の男)には課田50畝(約1.75ヘクタール)、丁女20畝(約0.7ヘクタール)、次丁男には25畝(約0.7ヘクタール)。

官吏に対しては官品に応じて一品官で50頃(1頃は100畝=約3.5ヘクタール)、以後官品が下がるごとに5頃ずつ下がり、最低の九品官で10頃の占田。

課田50畝に対して戸ごとに戸調
として年に3匹(72.3m)・綿3(667.2g)を収める。次丁男および女が戸主の戸はこの半分。

などと解る。

この中の「占田」「課田」とは何かなどの諸点に付いて日本中国の史学界に於いて非常に多岐に渡る研究が出されている。それらについて研究の節で日本に於ける研究を中心にして記述する。
歴史

では創始者曹操により屯田制が行われていた。屯田制は最前線などに駐留する兵士に耕作させる軍屯と土地を失った農民に対して半強制的に耕作させる民屯に分かれる。屯田民は5、6割に及ぶ高税率を課され、その収入は曹操軍団の経済的基盤となっていた。またこれと平行して自ら私有する土地を耕す一般民に対しては田租として畝ごとに4升(約0.8l)を課し、またそれまでの人頭税を止めて戸ごとに徴収する戸調制を開始、戸ごとに絹二匹(約48.2m)・綿二斤(約445.4g)を課した。

しかし263年景元四年)にを滅ぼし、徐々に屯田の必要性が薄れ、翌264年咸熙元年)より屯田の廃止が進められ、司馬炎禅譲を受けて皇帝となり、西晋が立った翌年の266年泰始二年)に廃止された。司馬炎はそれと共に268年(泰始四年)には『泰始律令』を発布し、国家体制を整えていった。

280年太康元年)に残るも滅ぼし、中国を統一した司馬炎は更に「戸調之式」を発布し、占田・課田制を開始した。しかし占田・課田制は実質的な効果はほとんど挙げられず、また司馬炎自身が統一後は堕落し、西晋は司馬炎死後の300年永康元年)に起った八王の乱により国力を大幅に減退させる。この時期には最早、占田・課田制は有名無実となっていたと考えられる。

占田・課田制は西晋の滅亡と共に消滅し、東晋および南朝に於いては受け継がれなかった[1]。しかし後に華北を統一した北魏に於いて均田制が施行され、占田・課田制はこの前身となった[2]
研究
史料

前述の通り、占田・課田制に付いての史料は極めて少なく、その内容に関して解ることは少ない。それにも拘らず多くの研究がなされているのは一重に占田・課田制が均田制の先駆として評価されることにあるだろう。均田制は朝の根幹制度とされ、また歴史学上での区分問題[3]でも最重要に位置づけられ、その均田制を理解するために占田・課田制の理解が必要と考えられたのである。

占田・課田制を知るための史料はまず『晋書』食貨志にある「戸調之式」と呼ばれる一連の文章である。戸調とは戸ごとに徴収される調のことであり、とはに関する細則のことである。以下にその全文を記す[4]。これとほぼ同じ文章が『通典』にあるが、2の「其外丁男」が「其丁男」に、4の「遠夷の課田せざる者」が「課田せざる者」になっている。
又、戸調之式を制す。丁男の戸は歳ごとに絹三匹・綿三斤を輸す。女及び次丁男の戸を為す者は半ばを輸す。其の諸辺郡、或は三分の二、遠き者は三分の一。夷人の?布を輸するものは、戸ごとに一匹、遠き者は或は一丈。

男子一人、占田七十畝、女子は三十畝。其外丁男は課田五十畝、丁女は二十畝、次丁男はこれを半ばす、女は則ち課さず。

男女年十六以上六十に至るを正丁と為す、十五以下十三に至り、六十一以上六十五に至るを次丁と為す、十二以下、六十六以上を老小と無し、事とせず。

遠夷の課田せざる者、義米を輸す、戸ごとに三斛、遠き者は五斗、極めて遠き者は算銭を輸す、人ごとに二十八文。

其の官品第一より第九に至るものは、各々貴賤を以って占田す、品第一なる者は五十頃を占む。第二品は四十五頃、第三品は四十頃、第四品は三十五頃、第五品は三十頃、第六品は二十五頃、第七品は二十頃、第八品は十五頃、第九品は十頃。

而して又、各々品の高卑を以ってその親属を蔭せしむ。多き者は九族に及び、少き者は三世。宗室・国賓。先賢の後及び士人の子孫もまた亦の如し。

而して又、人を蔭して以って衣食客及び佃客と為すを得。品第六以上は衣食客三人を得、第七・第八品は二人、第九品及び輿輦・跡禽・前駆・由基・強弩・司馬・羽林郎・殿中冗従武賁・殿中武賁・持椎斧武騎武賁・持?冗従武賁・命中武賁武騎[5]は一人。其の応に佃客を有すべき者、官品第一第二なる者は佃客五十戸[6]を過ぎることなく、第三品は十戸、第四品は七戸、第五品は五戸、第六品は三戸、第七品は二戸、第八品第九品は一戸。

順に解説を加えると。
前半部分は既述に付き省略。辺境の者および夷人(異民族)に関する規定。

この文に付いて、「占田」および「課田」という名称およびその語義、「其外丁男」の訓じ方、「女は則ち課さず」の解釈にはそれぞれ議論があり、占田・課田制全体をどう捉えるかの主要な論点となっている。

既述に付き省略。

課田の対象外となっている夷人(異民族)に関する規定。算錢とは人頭税のこと[7]

官品に応じての占田額。一品官で50頃という額は当時の豪族たちの大土地所有からすれば過小な額である。

官品に応じた蔭(官僚特権)の範囲の規定。

給客制と呼ばれる制度に関する規定。衣食客とは主人の身の回りの世話をする下僕、佃客とは小作人のことで、その数の規定である。給客制は蔭客制・限客制などとも呼び、占田・課田制が西晋の滅亡と共に消滅したのに対して、給客制は東晋以降も継続していった。

普通、この7文を全体として戸調之式と呼ぶが、既述のように式はあくまで令の補則であり、1のような原則を定めるものではない。『泰始律令』に「戸調令」が存在していることが見えるので[8]、1の文は「戸調令」に属するものと考えられる。これに関して、程樹徳は1-5を戸調令とし[9]仁井田陞は1-4を戸調令とし、5が戸調之式であるとしている[10]


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