占守_(海防艦)
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占守
終末公試中の占守
1940年6月、日比沖)[1]
基本情報
建造所玉造船所
運用者 大日本帝国海軍
第二復員省/復員庁
 ソビエト連邦海軍
艦種海防艦(大日本帝国海軍)
特別輸送艦(第二復員省/復員庁)
護衛艦/通報艦/工作艦(ソビエト連邦海軍)
級名占守型海防艦
建造費3,060,000円(予算成立時の価格)
艦歴
計画B計画
起工1938年11月29日
進水1939年12月13日
竣工1940年6月30日
最期1947年7月5日ソ連に引渡し
除籍1945年10月5日(日本海軍)
1947年7月5日(復員庁)
その後1959年5月16日、除籍・解体
要目(併記無き限り竣工時)
基準排水量860トン[2]
公試排水量1,020トン
全長78.00m
最大幅9.10m
吃水3.05m
主機22号10型ディーゼル 2基2軸
推進2軸[2]
出力4,500hp[2]
速力19.7ノット[2]
燃料重油220トン
航続距離16ノットで8,000海里
乗員竣工時:定員150名[注釈 1]
1942年7月1日時点:定員146名[注釈 1]
兵装三年式45口径12センチ単装平射砲x3基
25mm連装機銃x2基
九四式爆雷投射機x1基
爆雷x18個
搭載艇短艇x4隻[2]
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軍艦占守(しむしゅ)は、日本海軍海防艦[3][4]
概要

軍艦(ぐんかん)占守(しむしゅ)は、日本海軍が1938年(昭和13年)11月から1940年(昭和15年)6月にかけて建造した海防艦[4][5][6]。艦名は占守島に由来する[7][8]。竣工時は軍艦籍にあった[9][10][注釈 2]。だが1942年(昭和17年)7月の見直しで[11][12]、海防艦(かいぼうかん)占守(しむしゅ)に名称変更[11][注釈 3]、および類別変更された[13]。海防艦としては、占守型海防艦の1番艦である[13]。北方警備を目的として開発された艦級であるが[14][15]、占守型4隻のうち本艦のみ太平洋戦争終盤まで東南アジア方面で活動した[5][16]

太平洋戦争開戦時の占守は南遣艦隊に所属して、マレー作戦蘭印作戦における船団護衛任務に従事(南方作戦[3][5]。第一南遣艦隊へ改編後も、同艦隊に所属して船団護衛任務や対潜掃蕩任務に従事した。1943年(昭和18年)12月下旬に第一海上護衛隊へ編入され、引続き船団護衛任務に従事した[3]1944年(昭和19年)2月中旬、占守はヒ40船団を護衛、米潜水艦の襲撃でヒ40船団は大損害を受けた[17]。同年10月下旬、南西方面艦隊の指揮下に入る[18]。占守は11月上旬から中旬にかけて多号作戦に従事、生還した[3]。フィリピン方面で行動中の11月25日、米潜水艦の魚雷攻撃により損傷[3][19]。第一海上護衛隊に復帰後[20]、内地に帰投して修理を行った[3][16]。この際、喪失した艦首を丙型海防艦と同型にした[15]

1945年(昭和20年)4月10日、第一〇四戦隊に編入され、北海道方面で行動[3]終戦後、復員輸送に従事した[21]1947年(昭和22年)にソビエト連邦へ引き渡された[3][22]
艦歴
竣工まで

占守は、B計画の1,200トン型海防艦[15][注釈 4]、仮称艦名第9号艦として計画[6][23]1938年(昭和13年)11月29日玉造船所で建造番号262番船[24]として起工[15][2]1939年(昭和14年)11月6日、日本海軍は玉造船所で建造中の本艦を占守(シムシュ)、藤永田造船所で建造する駆逐艦を浦風(ウラカゼ)と命名する[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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