博多祇園山笠
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博多祇園山笠(はかたぎおんやまかさ)は、博多の総鎮守として知られる櫛田神社福岡市博多区)に山笠と呼ばれる作り山を奉納する神事(祇園祭礼)[1][2]。国の重要無形民俗文化財に指定されている[1][3]

祭礼期間は歴史的変遷を経て毎年7月1日から15日となっている[3]。最終日の未明には関係者が参列して櫛田神社祇園例大祭が執り行われる[4][5]。そして近隣の町で構成される「流」(ながれ)ごとに山笠を奉納した後(櫛田入り)、山笠を所定の順路を競って巡行する「追い山」が行われる[2]。各地に伝わる素戔嗚尊に対して奉納される祇園祭の一つで、博多どんたくとともに博多を代表する祭りである。
概要

福岡市博多区博多部那珂川御笠川(石堂川)間の区域)で行われる。「博多祇園山笠行事」として国指定民俗文化財(重要無形民俗文化財)に指定されている(所有者は博多祇園山笠振興会)[1][3]。櫛田神社の氏子が行う奉納行事で、地域住民が伝統的に催す町内行事である。

参加者や福岡市民などからは「山笠」「ヤマカサ」とも略称される。祭礼そのものを指す「山笠」と区別するため、神輿に相当する山笠を「山」「ヤマ」と称することがある。山笠を担いで市内を回ることを山笠を「舁く」(かく)、担ぐ人を「舁き手」(かきて)と称する。

豊臣秀吉による太閤町割の後、江戸時代の前期には「」(ながれ)と呼ばれる複数の町で構成する町組織が形成され、当番町を決め、その責任によって山笠行事一切の運営を取り仕切るとともに、流各町には年寄、中年、若手という年齢組織が組み込まれ、町組織と祭礼組織が一体化して運営されてきた[3][2]。特に最終日には山笠を建てた流ごとに櫛田神社に山笠番付(一巡するまで毎年順位が繰り上がる輪番制)の順に山笠を奉納し(櫛田入り)、その後、所定の順路を競って舁き運ぶ「追い山」が行われる[2]。この追い山の予行演習として3日前の午後に「追い山馴らし」が行われる[2]。戦後の一時期、山笠を建てた流は13流に増えたが現在の「流」は恵比須流大黒流土居流東流西流中洲流千代流の7流である(福神流は山笠を建てない)。東流のみ、当番町を持たず流全体で運営する。当事者として祭りに参加できるのは、原則として地域住民および地域出身者のみである。

山笠を巡行する際の掛け声「おっしょい」は1996年平成8年)に日本の音風景100選に選ばれた。2016年(平成28年)12月1日、博多祇園山笠を含めた日本全国33件のが、「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録された[6]。さらに略して「オイサ」ともいう[7]

山笠期間中は行事参加者の間ではキュウリを食べることが御法度で、「キュウリの切り口が櫛田神社の祇園宮の神紋と似ているから」が根拠とされる。櫛田神社や京都・八坂神社など水天神系の神紋の図柄は木瓜(ボケ)の花である。「夏が旬のキュウリを断ってまで祭りに懸ける」意気込みとする説もある。しかしながら「石城志」によれば”此祭りに胡瓜を食ふ事を禁ずべきのいわれなし”とある[8][9][10]

博多祇園山笠は女人禁制の祭りで、旧来の流は子供山笠も含めて舁き手は男性のみである。しきたりとして、女性は舁き手の詰め所に入れず、かつては舁き手の詰め所の入口に「不浄の者立入るべからず」と立て札した。「不浄の者」は喪中の者と女性を指しているが、女性差別として2003年(平成15年)に立て札の設置は中止された。代わりに「関係者以外立入禁止」の掲示や区切りをする。
歴史
起源

博多祇園山笠の起源については、円爾山笠発起説や永享四年祇園山笠成立説など諸説ある[2]
円爾山笠発起説
鎌倉時代1241年仁治2年)に博多で疫病が流行した際、承天寺の開祖で当時の住職である聖一国師(円爾)が、町民に担がれた木製の施餓鬼棚に乗り水を撒きながら町を清めてまわり疫病退散を祈祷したことが発祥とされる[11][12]
永享四年祇園山笠成立説
博多祇園山笠の文献上の初見(現存する最古の史料)は『九州軍記』巻之二の永享四年(1432年)六月条である[2][3]

なお、室町時代から安土桃山時代にかけての祭礼の様相は資料が僅少で分かっていない点も多い[2]
近世

秀吉による太閤町割の後、江戸時代前期には「流」(ながれ)と呼ばれる近隣の町で構成する町組が形成され、昭和前期まで九つの町組のうち七つの町組が正式参加し、六つの流が「山笠」と呼ばれる作り山を製作して博多の街で山舁きを行った[2]

さらに1725年(享保10年)頃までには速さを競う「追い山」が形成された[2]。一説には江戸時代1687年貞享4年)に[11]土居流が東長寺で休憩中、石堂流(現在の恵比須流)に追い越される「事件」が起きた。このとき2つの流が抜きつ抜かれつを繰り広げ町人に受けたことから、担いで駆け回り所要時間を競い合う「追い山」が始まったという。
近現代

明治時代になっても江戸時代と同じく祭礼期間は原則として旧暦の6月1日から15日だった[2]1911年(明治44年)の決議で祭礼期間を新暦の7月1日から15日までとすることになった[2]。なお追い山馴らしが始まったのは1883年(明治16年)である[2]

1945年昭和20年)は福岡大空襲の影響で中止となった[13]

戦後に入り1955年(昭和30年)に「博多祇園山笠振興会」が発足し、当時から「博多部外」の新天町なども飾山笠行事が行われ、1962年(昭和37年)から「博多部外」の福岡市中心部に舁入れる集団山見せなどが行われるようになった。1970年(昭和45年)から小学生が小型の山笠を舁く「子供山笠」も始まった。

2020年令和2年)は、新型コロナウイルス感染症の流行を受け、次年夏まで延期して戦後初の開催見送りとなった[14]2021年(令和3年)は、新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点から、舁き山の行事(追い山など)は前年と同様、次年夏まで延期して開催を見送る[15]が、飾り山の展示は中洲流・千代流を除き7月1日から14日まで実施された[16]

2022年(令和4年)博多祇園山笠振興会の総会で、3年ぶりとなる舁き山の開催を決定した[17]
山笠の形態(舁山笠と飾山)走る飾り山詳細は「山笠」を参照

一般の祭りの神輿山車に相当する、御霊を宿らせる「御神入れ」するものを「山笠」や「ヤマ」と称する。山笠発祥とされる鎌倉時代の山笠の姿は明確でない。

山笠の規模は幕末から明治初期に最盛期となり、高さは五丈二、三尺(16メートル弱)に達した[2]。一方、博多の街路には1883年(明治16年)には電信線が架設され、1890年(明治23年)まで低い山笠が製作されたが「団飯山(にぎりめしやま)」と揶揄されたという[2]1891年(明治24年)、山笠の高さを回復するため募金と陳情が行われ、逓信大臣の許可を得て電信柱21本を全長五丈のものとし、地上から高さ四条三、四尺になるよう取り替えられた[2]。しかし、1896年(明治29年)の博多電灯設立後、1897年(明治30年)に街には電灯線及び電話線が架設されたため、この年は櫛田神社境内に観賞用の山笠一本を建て山舁きは行われなかった[2]。さらに1898年明治31年)に福岡県知事が山笠行事の中止を提議した。理由に山笠が電線を切断する事故が相次いだことが含まれ、従来の高い岩山笠は飾り置く「飾り山」とし、運行は3メートル程の「舁き山」を用いることとした[11]

これより前の江戸時代には路上に留め置いた状態の山笠を「据山(すえやま)」、舁き廻して運行されている状態の山笠を「舁山(かきやま)」と呼んでいた[2]。しかし、明治30年代には観賞用の山笠を「据え山」のちに「飾り山」、山舁き用の山笠を「舁き山」と呼ぶようになった[2]1910年(明治43年)には市内で路面電車が開通して軌道上空に架線が設備されると、架線より高い山笠の運行が不可能となり「飾り山」と「舁き山」の分化は決定的となった。1979年昭和54年)に市内の路面電車が全廃されると舁き山の高さは徐々に緩和され、現在は4.5メートルまでとなっている。

終戦までは、流ごとに飾り山の台座部分である山笠台に舁き山の飾りを載せ、飾り山と舁き山を同一の山笠と見なしたが、戦後は明確に分離され、多額の費用を要する飾り山は商店街や企業の協賛で建てることとなる。1964年(昭和39年)に川端通商店街(上川端通)は、山笠の分化前の姿を彷彿とさせる「走る飾り山」を復活させ、現在も櫛田入りを奉納している。ほかの舁き山よりもコースが短く設定され、櫛田入りなどの時間計測も参考記録としている。他の流の山笠が再び以前の形に戻す計画はない。

「走る飾り山」は電線や信号機・標識などに接触しない伸縮式である。飾り山は煙が出るが、最初は1991年(平成3年)末に公開された映画ゴジラvsキングギドラと協業で、八番山笠・上川端通のゴジラ人形から煙を吐き出した。

飾り山や山笠の人形の衣装の生地は長年、京都の西陣織を使用していたが、2002年(平成14年)より地元の博多織を人形の衣装の生地に使うようになった。
舁き山笠(舁き山)
役割分担

舁き山より前を走り沿道の人々に舁き山が通ることを知らせる者は“前さばき”と呼ばれる。舁き山の安全な運行のため進路を空けさせるのが目的で、走りながら「前きれ」と掛け声をかける。

続く舁き手の集団は“前走り”あるいは“先走り”と呼ばれる。主に幼く身長が舁き棒に届かない少年たちや、その世話役である老齢の年長者で構成され、山笠の番号や流れ名が書かれた“招き板”と“招き旗”を持って走る。招き板は専ら少年たちが持ち、招き旗は年長者が持つのが習わしである。

舁き山の人形を飾る台に上がって舁き手の指揮を執る“台上がり”は表(前側)に3名、見送り(後ろ側)に3名の計6名である。台上がりは名誉とされると同時に流れ全体の責任を負う。表中央に上がる者を“表棒さばき”、見送り中央に上がる者を“見送り棒さばき”と呼び、流れ全体の中心人物として働くこととなる。

舁き山には6本の舁き棒が取り付けられるが、前後の端に6名ずつの計12名の“棒鼻”、台の前後に6名ずつ計12名の“台下”、台の両脇に2名または4名の“胡瓜舁(きゅうりがき)”、計26名または28名の舁き手が配置される[18]。彼らとは別に、舁き棒を後端から押し舁き山を推進させる“後押し”がいる。後押しに人数の規定はなく、後押しの背後に更なる後押しが幾重にも付いて舁き山を押す。

舁き山の周囲には常に舁き手の交代要員が並走し、台上がりの指示に従い舁き山の勢いを削ぐことなく舁き手を随時交代する。外側より内側の舁き手ほど交代が難しく熟練を要する。舁き手は素早い交代と転倒時の支えのため、舁き棒を直接持つのではなく、自分専用の“舁き縄”を舁き棒に掛けて肩に固定する。

舁き棒の両端の前後左右の四隅に取り付けた“鼻縄”と呼ばれる縄を持つ4名の舁き手を“鼻取り”と呼ぶ。鼻取りは舁き山の進行方向を決定・調整する舵取り役である。

舁き山の後には“後走り”と呼ばれる舁き手の集団が続くが、その中に水桶を担ぐ“水担い(みずいない)”がいる。この水は台上がりが飲むためのもの。

沿道のあちこちに水が用意されており、柄杓や桶を用いて、舁き山が通り過ぎる直前に舁き山や舁き手の前方から掛けられる。この水は“勢い水(きおいみず)”と呼ばれ、舁き山や舁き手を清める意味と共に、舁き手の冷却や乾燥による舁き山の崩壊を防ぐなどの役割がある。勢い水を掛けるのは主に、先走りの中の“水係”や沿道の住民である。
舁き手舁き山

少年時は子供組に属し、中学生になれば若者組や若手組に属する。若者のうち赤手拭となったものが山笠役員となる。赤手拭も更に歳を重ね取締となる。

山笠に参加する舁き手たちは水法被に締め込み姿で貫かれ、足元は地下足袋脚絆で、江戸時代までは締め込み一丁であった。1898年(明治31年)に裸体同然のスタイルを問題視して県議会で山笠を廃止する案が提出されたが、博多の反対派は玄洋社進藤喜平太から紹介された古島一雄の助力で水法被を着用することで山笠廃止を撤回させ、以来現在まで水法被に締め込みのスタイルが続いている。締め込みの材質は大人は薄めの帆布(79A、11から9号程度)やモスリン、子供はフランネルや重ねた洋服地(シーチング等)、色は千代・東・西・大黒流では白、生成以外は禁止だが中洲・恵比須・土居流は黒・紺が多く子供用は白が多いが黒や赤が使われる場合がある。


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