単発ドラマ
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テレビドラマ > 2時間ドラマ

本記事では、2時間ドラマ(にじかんドラマ)または2時間サスペンス(にじかんサスペンス)[1]と呼ばれる、日本のテレビドラマの一ジャンルについて解説する。主に地上波などでテレビジョン放送され、後述の通りアメリカ合衆国テレビ映画から影響を受けている。
概要
定義

大野茂によると、2時間ドラマとは

人が原因の事故・事件が扱われている

謎を解く、または真相を追うドラマである(犯人サイドから描く場合は、犯行の動機や経緯を描いている)

不安・気がかりな心理描写がある

近現代が主な舞台である

以上4つを基本に据えた、80分以上のサスペンスやミステリードラマ作品である[注 1][2]
傾向

序盤に笑えるシーンがあり、中盤になると犯人として疑わしかった人物が死亡する。殺害の動機は金銭トラブル・痴情のもつれ・遺産争いなどいくつかのパターンに限られる。こうしたフォーマットが形成された理由は、そういった作品の視聴率が取れたためである[3]

放送途中から見始めた視聴者も話について行けるよう、ドラマ中盤で登場人物が事件関係者の相関図を書き出す「十時またぎのホワイトボード」と呼ばれるシーンも定番である[4]

ドラマの終盤では、海岸の断崖絶壁の上で犯人が自白するシーンがお約束となっている[5][6]。このシーンは1961年の映画『ゼロの焦点』の影響だとする説がある[7]が、『土曜ワイド劇場』の初期の制作陣によれば特に同作を意識していたわけではなく、「殺人事件があっても後味の良い終わり方にするために大団円で集合するようにする」「名所旧跡で作品を終わらせる」という製作上の意図によって生まれたものだという[5]。『土曜ワイド劇場』のプロデューサーを務めた松本基弘によれば、「取調室や山で犯人が告白しても面白くならかったが、海ならば波が動いて表情に変化が生まれた」「よほど追い詰められていなければ犯人も自白などしないため、特に断崖絶壁が適していた」という旨の背景があった[6]。また、「崖のシーン」が定着したのは1990年代になってからであり、パロディ的に語られるようになったのも同じ時代で、それを2時間ドラマ自体がセルフパロディ的に取り入れていったともされる[5]

2005年に放送されたバラエティ番組『トリビアの泉 ?素晴らしきムダ知識?』では、「新聞のテレビ欄に書かれている2時間ドラマの出演者の中で一番犯人である確率が高いクレジット順」の調査が行われた。その結果、最も多かったのは上から3番目の役者だった[8]。調査方法は2004年に放送された民放2時間ドラマ201作品を対象とし、犯人役が書かれていないときはカウントせず、複雑な話で複数犯の場合は最後に判明する最重要な犯人をカウントした[8]。3番目の割合は31パーセントで内訳は月曜ミステリー劇場48回、火曜サスペンス劇場41回、女と愛とミステリー40回、金曜エンタテイメント30回、土曜ワイド劇場42回[8]。第2位は4番目で29パーセント、第3位は5番目で20パーセントとなっている[8]。調査結果発表方法は榎木孝明中村俊介山村紅葉、船越英一郎の2時間ドラマへ出演している役者たちがそれ仕立てでランキングを発表していくミニドラマだった[8]。なお、3番目であるのは主人公に相棒役がいる場合で、犯人役は出演シーンも多く経験を積んだ役者が演じることが多いのが理由である[6]
歴史
黎明期と『土曜ワイド劇場』の誕生.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。他の出典の追加も行い、記事の正確性・中立性・信頼性の向上にご協力ください。
出典検索?: "2時間ドラマ" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2024年1月)

1970年頃までの日本のテレビ業界では、放送するためのアメリカ合衆国の映画が足りなくなると他国の作品を放送していた。そんな時、テレビ朝日高橋浩は、アメリカでは2時間枠で流すオリジナルのテレビ映画を放送することを知る。当時日本では映画は劇場公開から4-5年経たないとテレビでは流せなかった。しかしテレビ映画は制作すればすぐ放送できる新鮮さがあり、高橋はそれを「テレフィーチャー」と命名して放送のため調べ始めた[9]

1971年5月、日本で初めて放送されたテレフィーチャーとして、『日曜洋画劇場』でアメリカの『サンフランシスコ大空港』を本国の本放送から8か月後にオンエアした。視聴率は15.9パーセントの合格点であった[10]。その後、高橋がアメリカのエンターテインメント雑誌『バラエティ』を読んでいたところ、カーチェイスもののテレビ映画についての記事に目が止まった。この作品とはスティーヴン・スピルバーグの『激突!』で、高橋はその迫力に大変驚いたという[11]。同時期にテレフィーチャー2作目の『夜空の大空港』が視聴率20.7パーセントを記録したことで他局もそれを認識し始め、高橋はテレフィーチャーについてのレポートを書いて社内に広め、上司にテレフィーチャー専用枠創設を提案するなどアピールした[11]。『激突!』は劇場公開から早い段階となる2年後の1975年1月にテレ朝で放送され、視聴率22.1パーセントを記録。各局のテレフィーチャーへの注目度が高まり、同年4月に高橋は外画部からテレビ映画の計画を立てる編成開発部へ異動となった[12]

高橋たちは国産テレフィーチャー制作のため上司への説得に奔走した。その際、役員待遇の田中亮吉が高橋に「外国映画の放映権料が高くなっており、また人気作との抱き合わせのB級ものは当たり外れが大きい。その予算でテレフィーチャーを作れないか」と助言、テレビ朝日編成本部長兼常務の中須幹夫にプレゼンテーションを行う。一度目は不調に終わったが二度目のプレゼンの時は高視聴率のプロ野球読売ジャイアンツ戦が雨天中止続きで、代替番組の視聴率も一桁になっている時期だったこともあり、雨と関係ないテレフィーチャーは安定した視聴率を出せることを強調して中須の説得に成功した。B級もののを消化していた90分枠『土曜映画劇場』をリニューアルし、『土曜ワイド劇場』(以下、土ワイ)としてテレフィーチャーの放送枠とすることになった[13]。その頃は映画産業に陰りが出ていた時代で、機材やスタッフに余剰があり、制作費は安かったが仕事がないよりは良いと、採算関係なしで制作に手を挙げる会社が幾つもあった。また映画用35ミリフィルムをテレビ用16ミリフィルムにすれば映画用の機材が使えると受け入れられたことも有利にはたらいた。編成開発部の井塚英夫は、他国での成功例からして題材はミステリやサスペンスが良いと考えたが、更には1976年から1977年にかけて角川書店による文庫と映画で横溝正史森村誠一など推理小説ブームも背景にあった[14]。同部の井塚や宇都宮恭三は特色として「金銭・名誉出世・性」という現代人の三大欲望を取り入れ、せめぎ合いを描写し、ストーリーも女性からみてできるだけ悲劇的に、主婦からは哀れだがそれに対して自分は幸福だと感じさせ、その悲劇の中で殺人が起こり、犯人当てだけではなく女性の心の充足や感情移入を狙い、サスペンスは暗いビジュアルになりがちだが画面を明るくし、主婦に旅行気分を味わってもらうために観光地が登場した際には地名の字幕を入れた[15]。井塚は土ワイの放映開始直前(1977年6月)の社内報に、その制作方針として「主なターゲットは20から35歳の女性、特に映画館に出かけられない子供のいる女性、内容は娯楽性や話題性が一番で脚本に注力、現代的で風俗や流行を取り入れる、健康的や美しいものなら裸やお色気は可、ハートのある作品が強みで視聴者の涙と感動は無視できないこと」を掲げていた[16]

1977年7月2日に放送された土ワイ第1作『時間よ、とまれ』は4月放送予定から3か月遅れてのオンエアとなり、裏番組は『Gメン'75』『ウィークエンダー』がある中で視聴率16.8パーセントと善戦した。だが制作側では脚本を巡って意見が食い違う苦労等がありながらも視聴率は次第に下降、営業担当からはメロドラマの方が視聴率がとれるのではないかと言われたりしたが、制作スタッフ間で衝突がありながらも、誰かの作品の受けが悪かったら他のスタッフが補うような連帯感も生まれた[17]

放送開始年の作品にはギャラクシー賞選奨の『昭和怪盗傳』のようなドラマもあったが、視聴率は第1回放送を超えることができず、ブレイクを前にしてそのきっかけが掴めていなかった。だが、それを打破したのは「性と怪奇」の要素だった。1978年の放送1発目『江戸川乱歩の美女シリーズ』第2作「浴室の美女」が視聴率20.7パーセントを記録。放送枠の方向性を決定付け、視聴率が高かったドラマのシリーズ化を始め、最初からヒットを狙わず自然発生に任せた[18]

放送開始から2年経過で全体の3割がシリーズものとなり、視聴率は最初の3か月平均が10.3パーセントだったが1979年1月から3月が平均14パーセントに向上した。テレビ朝日のプライムタイムは平均11パーセントだったため看板枠となっており、1980年1月の調査で個人視聴率は20歳から34歳男性が13パーセント、スポンサーが最も欲しがる20歳から34歳女性が18.7パーセントで2位の4.6パーセントに大差を付け、世帯視聴率は18.7パーセントで『Gメン'75』に勝ち、1位となった[19]。1979年春にABC朝日放送が制作に加わり2時間枠へ拡大、それまでのABCは土曜夜10時半の枠は1975年のネットチェンジで長寿番組『夫婦善哉』を無理に移動させた結果、半年で打ち切られ、後番組も短期間に変わっていたこともあって、その枠を廃止して土曜ワイド劇場の放送時間を拡大、視聴率も大幅上昇した[20]
他局の追随

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『土曜ワイド劇場』の成功を受け、他局でも同様の枠創設を考え始める。最初に動いたのは日本テレビで、1980年4月に『木曜ゴールデンドラマ』を開始。夜9時と10時でネット局が違っていたのを調整して統合、初期の頃はミステリーだけではなくSF時代劇ホームドラマなど土ワイよりもバラエティ豊かだった[21]。当初、視聴率が良い作品には「根性もの」「お涙頂戴もの」といえるジャンルが多く、社会派や問題作のような作品は低視聴率ばかりだった[22]。日本テレビは1978年8月時点でテレフィーチャー制作の話が出ていたが、枠の創設には3年をかけた。

火曜サスペンス劇場』(以下、火サス)を開始するにあたり土ワイとの差別化を図るため、番組企画者の小坂敬は「ミステリー&サスペンスの面白さ」「人間ドラマの感動」に思い至り、犯人は誰かやどうやって犯行をしたかと、なぜその人は犯罪に走ったのかの両方を主軸に据え、瀬戸際に立たされた人を描くサスペンスこそが本当の人間ドラマだと考え、事件だけを追うものだけでなく被害者加害者が複雑な現代組織で生きる者の喜怒哀楽を丁寧に描くことで共感や感動が得られるとして「哀しくなければサスペンスじゃない」が制作スタッフの合言葉になった[23]。ターゲットとする視聴者は家事を終えて時間ができた主婦層で、受け入れてもらうために女性を意識したテーマや演出をし、ベッドシーンの際どさは抑え、女が男に復讐する展開など主婦が感情移入できる等身大の作品を方針とした[24]。他番組との差別化のために一番重きを置いたのは音楽であり、視聴者を惹き込むために冒頭でその話のハイライトシーンを入れ、木森敏之によるテーマ曲を流した[25]。また、番組用の主題歌を起用し、エンディングに流すことで単発枠でキャストやスタッフが違いながらもレギュラー番組であることを認識させ、視聴習慣を根付かせるという今までにない手法を採った[26]。女性に共感されるために女性で若く、歌が上手い歌手を、ということで岩崎宏美が候補に挙がり、小坂は岩崎の全曲を集め3か月かけて起用を決定。小坂は枠の命運は彼女に掛かっているとの思いで『聖母たちのララバイ』が制作された[27]

火サスは1981年9月29日に開始、スタッフは視聴率が20パーセントを超えるのには3か月は掛かるとみていたが、同年11月17日放送の『ママに殺意を』でその大台を突破する。その後も20パーセント台をコンスタントに記録し、25パーセントに到達したこともあり、女性が感情移入しやすいドラマは特に視聴率が高かった[28]。次第にエンディング曲についての問い合わせが増え、カセットテープで抽選200名にプレゼントする企画を行ったところ30万通もの応募があり、当初予定していなかったレコード化が行われると『聖母たちのララバイ』は日本歌謡大賞を受賞。120万枚セールスを叩き出し、1982年の『第33回NHK紅白歌合戦』で岩崎は同曲を歌唱、火サスの平均視聴率が22パーセントを記録して、枠創設から1年で「火サスと土ワイの2強時代」となった[29]

同時期、TBSでは1時間ドラマがメインストリームであって2時間ドラマは邪道との考えだったが、土ワイ・火サスが高視聴率をしばし記録していたのを黙って見ている訳にはいかなくなり、1982年4月に『ザ・サスペンス』を開始、土ワイと放送時間を丸被りさせた[30]


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