この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "平和条約"
平和条約(へいわじょうやく、peace treaty)とは、戦争状態を終結させるための条約。講和条約(こうわじょうやく)、和約(わやく)ともいう。二つの敵対する勢力(通常は国家や政府)が、戦争や武力紛争の公式な終結を合意するものである。平和条約は、敵対状態の一時的な停止を合意する休戦協定(armistice)や、軍隊が武装を放棄することを合意する降伏(surrender)とは異なるものである。 平和条約では以下のことを目的に行われる。 また、講和の条件として様々な事項が盛り込まれ得る。条約の内容は通常、条約を結ぶ原因になった紛争の性格を濃厚に反映する。 平和条約や講和条約は、戦争や紛争の当事国に対して中立とみなされる地域で批准されることが多い。そしてこれら中立国からの使節が調印の証人として振舞う。数カ国同士の大規模な戦争の場合、関係国の全ての問題を包括する一つの国際条約や、関係国が個別に結ぶ別々の条約が結ばれることになる。 現代において、扱いにくい紛争状態を解決する際には、まず一時的な停戦が行われ、両方の勢力がいくつもの個別の段階を踏んでいく和平プロセス
平和条約の内容
戦争の終了と平和の回復の宣言
国境の公的な確定
将来問題が起こった場合の解決に向けた方法について
天然資源への両国のアクセス方法、配分方法
戦争犯罪人のおかれる状態
難民のおかれる状態
残っている負債の清算
所有権を主張する物の清算
禁止される行為の定義
現存する条約の再適用
平和条約は内戦において分離主義運動側が敗北した場合には締結されない(条約締結という行為は、紛争当事者の双方が互いを国家と認めることになるからである)。アメリカ南北戦争の終わりのように、普通は負けた側の軍隊が降伏し政府が崩壊する流れで自然に終結する。これとは対照的に、分離元の政府が独立政府を承認した場合には、アメリカ独立戦争における1783年のパリ条約のような平和条約を締結する場合もある。 第二次世界大戦後に国際連合が設立されると、国連は、国際紛争を解決するためのフォーラムという役割を模索し、しばしば和平プロセスおよび平和条約締結の場として役立った。国連が作る数々の国際条約や、国連加盟国に課せられた戦時における行為を制限し管理すべきという義務は、各国が全面戦争を行うという考えを抑制してきたといえる。しかしこれは、公式な宣戦布告が多くの場合受け容れられず、それゆえ戦争の終わりにあるべき平和条約も作られないことも意味する。朝鮮戦争はその例で、休戦協定により中断されているが、講和条約による終わりを迎えていない戦争である。 最も古い講和の記録は古代エジプトとヒッタイトの間でカデシュの戦い(紀元前1274年頃)の後に交わされたものである。シリア地方をめぐって二つの帝国は長年摩擦を続け、ついに戦いが起こった。消耗が著しい4日間の戦いの後どちらも決定的な優位を得られないまま勝利を宣言した。しかし解決なしには数年後にも戦争が起こる可能性があり、両国にその余裕がなかったため、一応の講和を残して戦争は終結した。 この講和はエジプトの文字(ヒエログリフ)とヒッタイトの文字(楔形文字によるアッカド語)による互いの言語のバージョンが作られ、両者とも現存している。両者の言語で平和条約が作られるのは今日に至る方式であり、ほとんどの内容はまったく同じだが、読み比べると互いに都合のいい部分も見られる。ヒッタイト側の文章では「エジプトが請うて講和に至った」と書かれ、エジプト側では逆のことが書かれている。この条約は銀板の形で交わされ、エジプトが持ち帰った銀板の内容はカルナック神殿に刻まれた。 エジプトのラムセス2世とヒッタイトのハットゥシリ3世の敵対状態はこの条約で終結した。
国連の役割
平和条約・講和条約の例
カデシュの戦いの講和カデシュの戦いの講和 (ハットゥシャで発掘、イスタンブール考古学博物館所蔵)