この項目では、平氏による焼討について説明しています。三好・松永両氏による焼討については「東大寺大仏殿の戦い」をご覧ください。
南都焼討
東大寺盧舎那仏像(大仏、大仏殿ともに江戸時代の再建)
戦争:治承・寿永の乱
年月日:治承4年12月28日(1181年1月15日)
場所:南都(現奈良県)
結果:平氏の勝利
交戦勢力
平氏東大寺・興福寺
指導者・指揮官
平重衡南都大衆
戦力
40,000(平家物語)7,000(平家物語)
損害
不明主要な堂舎が全焼、焼死者多数で壊滅状態
治承・寿永の乱
以仁王の挙兵
石橋山
波志田山
衣笠城
鎮西反乱
熊野動乱
市原
結城浜
鉢田
富士川
金砂城
美濃源氏挙兵
近江攻防
伊予蜂起
南都焼討
南都焼討(なんとやきうち)は、治承4年12月28日(1181年1月15日)に平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件。平氏政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆(だいしゅ)の討伐を目的としており、治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。 平治の乱の後、大和国が自身の知行国になった際、清盛は南都寺院が保持していた旧来の特権を無視し、大和全域において検断を行った。これに対して南都寺院側は強く反発した[1]。特に聖武天皇の発願によって建立され、以後鎮護国家体制の象徴的存在として歴代天皇の崇敬を受けてきた東大寺と、藤原氏の氏寺であった興福寺は、それぞれ皇室と摂関家の権威を背景とし、また大衆と呼ばれる僧侶集団が元来自衛を目的として結成していた僧兵と呼ばれる武装組織の兵力を恃みとして、これに反抗していた。だが、治承3年(1179年)11月に発生した治承三年の政変で、皇室と摂関家の象徴ともいえる治天の君後白河法皇と関白松殿基房が清盛の命令によって揃って処罰を受けると、彼らの間にも危機感が広がり、治承4年(1180年)5月26日の以仁王の挙兵を契機に園城寺や諸国の源氏とも連携して反平氏活動に動き始めた。 以仁王の挙兵が鎮圧された後の6月、平氏は乱に関わった園城寺に対して朝廷法会への参加の禁止、僧綱の罷免、寺領没収などの処分を行ったが、興福寺はこの時の別当玄縁が平氏に近い立場をとっており、寺内部に平氏との和睦路線をとる勢力が現れた事により、園城寺ほど厳しい処分はされなかった。平氏と興福寺の緊張関係は、平氏の福原行幸後に一定程度緩和されていたが[2]、この年の末に近江攻防で園城寺・興福寺の大衆が近江源氏らの蜂起に加勢し、それによって平氏は12月11日に平重衡が園城寺を攻撃して焼き払うと、いよいよ矛先は興福寺へと向くことになる[3]。 『平家物語』巻第五によれば、平清盛はまず妹尾兼康に兵500を付けて南都に派遣した。清盛は兼康に対して出来るだけ平和的な方法での解決を指示して軽武装で送り出した。だが、南都の大衆は兼康勢60余人を捕らえて斬首し、猿沢池の端に並べるという挙に出て兼康は命からがら帰京し、清盛を激怒させた。 『平家物語』では、この事件によって南都への攻撃がなされたとするが、『玉葉』や『山槐記』など同時代の他の史料には見られず、事実であるかは不明であり[4]、清盛が部下を派遣したとしても、それは大和国の武士を動員するための役人であった可能性も考えられている[5]。一方、『玉葉』『山槐記』によれば、園城寺が焼亡した直後の12月11日ごろから、南都の大衆が末寺や荘園の武士らを動員して上洛するという噂や[6]、それに乗じて延暦寺の大衆が六波羅を襲撃するなどの噂が流れており[7]、16日には南都を出発した大衆らが京都に向かっているというデマによって官軍が出動する騒ぎが起こっている[8]。 こうした状況の中、「悪徒を捕り搦め、房舎を焼き払ひ、一宗を魔滅す」べく南都への出兵の準備が進められ[9]、12月25日に平清盛は息子の重衡を総大将、甥の平通盛らを副将とし、『平家物語』によれば4万、『山槐記』では数千とされる[10]兵を南都に向かわせた。これに対して南都大衆の側も南都の入り口にあたる般若坂と奈良坂に「城郭」と呼ばれる堀を築き[11]、『平家物語』によれば7千、『玉葉』では推定約6万[12]とされる兵をもって防備を固めた。平重衡らの軍は京を出発後、悪天候のため宇治に留まったのち27日に木津に達し、そこで兵を2手に分けて重衡隊は木津方面、通盛隊は奈良坂より侵攻したが、同じ27日に重衡らとは別に河内方面から侵入し、当時興福寺の末寺だった當麻寺に攻め込んだ平氏の別動隊を撃退した[13]南都側は、重衡らの本隊に対しても木津川沿岸や奈良坂・般若坂などで抵抗を続けたため、全体的に平氏軍が有利ながらも決着が付かなかった。翌28日になると平氏の軍勢は木津・奈良阪・般若坂の各防衛線を突破して南都に入り、大衆との間で激戦が展開された。しかし依然として決着はつかず、夕方に入ると平氏軍は奈良坂と般若坂を占拠したまま本陣を般若坂沿いの般若寺内に移した。『平家物語』によると、その夜、重衡が陣中にて灯りを求めたところ、配下が周囲の民家に火を放った。それが折からの強風に煽られて大火災を招いたとする[注釈 1]。しかし上述の通り、僧坊等を焼き払うのは当初からの計画であり[14]、『延慶本平家物語』でも「寺中に打ち入りて、敵の龍りたる堂舎・坊中に火をかけて、是を焼く」と計画的な放火であった事を示唆していることから、放火自体は合戦の際の基本的な戦術として行われたものと思われるが、興福寺・大仏殿までも焼き払うような大規模な延焼は重衡たちの予想を上回るものであったと考えられる[15]。焼失した東大寺の創建時大仏殿復元模型(大仏殿内所在) この火災によって罹災した範囲は北は般若寺から南は新薬師寺付近、東は東大寺・興福寺の東端から西は佐保辺りに及び[16]、現在の奈良市主要部の大半にあたる地域を巻き込んだ広範囲なものであった。その中で特に被害の大きかった興福寺・東大寺のうち、東大寺では金堂(大仏殿)・中門・回廊・講堂・東塔・東南院・尊勝院・戒壇院・八幡宮など寺の中枢となる主要建築物の殆どを失い、焼け残ったのは中心からやや離れた高台にある鐘楼・法華堂・二月堂や寺域西端の西大門・転害門および正倉院などごく一部であった[17]。また建物だけでなく、多くの仏像・仏具・経典などがこの兵火によって灰燼に帰した。東大寺の本尊であり、国家鎮護の要であった大仏も甚だしく焼損し、頭部と手は焼け落ちてそれぞれ仏身の前後に転がっていたという[18]。東大寺は奈良時代の創建以来、延喜17年(917年)の講堂および僧坊の焼失、承平4年(934年)の落雷による西塔の焼失などの災害に見舞われたことはあったものの[19]、大仏殿をはじめ寺の中枢部を一挙に失うほどの火災は初めてのことであった。 また興福寺でも五重塔と二基の三重塔の他、中金堂・東金堂・西金堂・講堂・北円堂・南円堂・食堂・僧坊や大乗院・一乗院を始めとする子院など、寺の主要建築物のほとんどにあたる38の施設を焼いたと言われている[20]。興福寺においても多くの仏像が焼失した。中でも南円堂の本尊不空羂索観音像は、この当時藤原氏の主流であり、摂関家も属していた藤原北家の祖である藤原房前の室牟漏女王の追善のため、夫妻の子真楯が天平18年(746年)に講堂の本尊として造立した像であるとも、またはその子内麻呂が造立した像であるとも伝えられ[21]、その後、北家興隆の礎を築いた藤原冬嗣が弘仁4年(813年)に南円堂を創建した時にその本尊とされるなど北家に縁の深い像であり、また不空羂索観音が藤原氏の氏神である春日明神の本地仏とされていたことから[22]、北家の繁栄を守護する像として、主に北家に属する藤原氏一門の信仰を集め、過去の火災にも救出されてきた像であったが[23]、この像も今回の兵火によって焼失した。この火災で被害を免れたのはわずかに禅定院のみであり[17]、焼け残った仏像が後にここに仮安置された[24]。興福寺は平安時代に入ってから何度か大きな火災に見舞われたが[25]、寺域のほとんどが一挙に焼失するほどの火災は、永承元年(1046年)12月24日、寺の西郊から出火した火が、同じく師走風に煽られて北円堂・正倉以外の建物が全焼して以来であった。
背景
経過