南部藩
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盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、現在の岩手県中部を地盤に青森県東部から秋田県北東部にかけての地域を治めた。藩主が南部氏だったため南部藩とも呼ばれる。

居城は盛岡城陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。

同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。

画像外部リンク
南部氏領(盛岡藩と八戸藩
黄色が盛岡藩領(+七戸藩領)
ピンク色が八戸藩領

八戸市博物館「 ⇒八戸藩の誕生」)

歴史

甲斐国(現在の山梨県)に栄えた甲斐源氏の流れを汲んだ南部氏の始祖・南部光行が、平泉奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に上陸し、現在の南部町相内地区に宿をとった。その後、奥州南部家の最初の城である平良崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いた。後に現在の青森県三戸町三戸城を築城し移転している(現在、城跡は城山公園となっている)。

南部氏は、相馬氏相良氏宗氏島津氏と並び、鎌倉時代以来、明治まで、700年近くにわたり同一の国・地域を治め続けた、世界でも稀有な領主である。詳細は「南部氏」および「南部氏歴史年表」を参照

ちなみに、盛岡市の市章は「違菱(たがいびし)」と呼ばれ、南部氏の家紋「向鶴(むかいづる)」にあしらわれた鶴と、甲斐源氏を出自とすることの表れである元来の家紋「菱」を連想させるものである。現在の市章が使われるようになった経緯は明らかでないが、菱を重ねた紋は、少なくとも江戸時代には既に南部家で使われていたものと言われている。
安土桃山時代

天正18年(1590年)7月、「南部家中興の祖」とも呼ばれる南部家第26代南部信直(初代盛岡藩主・南部利直の父)が豊臣秀吉小田原征伐に参陣しそのまま奥州仕置に従軍中、秀吉から宇都宮において7月27日付で南部の所領の内7ヶ郡(糠部郡閉伊郡鹿角郡久慈郡岩手郡志和郡、そして遠野)についての覚書の朱印状を得る[1]ことによって、豊臣大名として公認された。このときに秀吉との間をとりもったのが前田利家であり、南部家はこの恩を忘れぬようにと以降の歴代当主の名前には「利」をつけるようになる[2]

さらに、翌天正19年(1591年九戸政実の乱の後本拠を、三戸城から九戸城(のち「福岡城」と改める。現在の二戸市福岡に当たる。)に移したが、津軽為信に安堵されたことで失領した津軽3ヶ郡平賀郡鼻和郡田舎郡)の代替地として和賀郡稗貫郡の2ヶ郡が加増され、9ヶ郡におよぶ版図が確立し、このとき安堵された9ヶ郡は、現在の岩手県青森県秋田県の3県にまたがっており、蒲生氏郷浅野長政より九戸では北辺に過ぎるとの助言を受け不来方の地を本拠とすべく、仮住まいの郡山城(現在の岩手県紫波町日詰高水寺)を経て、文禄元年(1592年)、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めた。
江戸時代

江戸時代の250年間に76回もの
飢饉があった。また、 盛岡・八戸両藩で発生した百姓一揆は132回を数えた(共に詳細は後述)。

慶長 5年(1600年)、関ヶ原の戦いで覇権を確立した徳川家康からもそのまま所領が安堵され、表高(軍役高)10万石の大名として認められた。

元和 3年(1617年)3月、盛岡藩主・南部利直、八戸氏(根城南部氏)から下北の支配権を接収。

元和 8年(1622年)、金山師の丹波弥十郎が、朴木金山大判6,500枚もの運上金で採掘を請け負い話題となる。

寛永 4年(1627年)3月、阿曽沼氏の旧領だった遠野地区が陸奥仙台藩との領境を接する防御上の用地であったため、藩主・利直は南部本家筋にあたる八戸直栄(直義)を八戸根城から遠野横田城へ陸奥国代として転封させて、中世以来の八戸の根城南部氏から、遠野南部氏となった。

寛永10年(1633年)3月、盛岡へ黒田騒動筑前福岡藩家老・栗山利章が南部家御預りとなる。この年、盛岡城が度重なる水害を経ておよそ40年の歳月を掛けて完成し、盛岡は正式な南部氏の城下町となった。

城から仰ぐ岩手山早池峰山姫神山の「南部三山」に大権現を勧請し、城を中心として、上級武士(高知)を住まわせ、その周りに町人を、さらにそれらを、取り囲むように一般の侍町をつづけ、市中の平均した発展を図るために「五の字割」と呼ばれる町割りを行い、周辺の村々に通じる城下はずれの街道沿いには、警護の必要から足軽(同心)を住まわせた。さらに城下北東の山麓には、防護上の配慮から、城の真北に祖霊を祀る「大光山聖壽禅寺(臨済宗妙心寺派)」を建立した。京都にならって、北部丘陵を「北山」と呼んで領内の寺社を集め、大寶山東禅寺(臨済宗)、擁護山無量院教浄寺(時宗)、瑞鳩峰山報恩寺曹洞宗)、大智山法泉寺(臨済宗)と合わせ特に「盛岡五山(盛岡五ヶ寺、北山五山)」と定め、東には盛岡八幡宮、盛岡天満宮、住吉神社などの神社を配した。

寛永11年(1634年)8月、糠部郡が三戸二戸九戸の4ヶ郡に分割されて、徳川家光により、領内10郡10万石の領知判物拝領。

寛永12年(1635年)3月、朝鮮通信使を巡る柳川一件対馬府中藩長崎県対馬市)から、当時の有識者である規伯玄方(「方長老」と呼ばれた)が、遠く九州からお預けの身となったが、当時の藩主は茶の湯漢文を始めとする文化の師として厚遇し、京や西国、大陸の文化を取り入れることに成功した。また、これが地場工芸の南部鉄器や作庭、後世の菓子創作などに影響し、盛岡における芸術文化の土壌を生み出したと考えられている。このころ、藩主は「蛭子屋三衛門」(現・小野染彩所)を御用染司として京都から招いた。

物流は北上川舟運による輸送が主流であり、仙台藩の石巻を経由して江戸上方と結ばれていたが、西には鹿角街道(流霞道)があり、遠国との海運を果たす重要ルートであった。盛岡藩は砂金、紫紺、良馬の産地であり、城下には大店が並び上方からの下り物取引があって、飢饉の頻発した農村と比べれば経済的には豊かであった。時に町人の生活は華美になり、過度に山車の壮麗さを競う風潮も生まれ、奢移品を禁ずる法令もが出されたという。それは開府に先立って招聘した近江商人をはじめとする「領外商人」進出による影響が大きい。うち有力な者は現在の滋賀県高島市大溝周辺から進出した村井氏・小野氏ほか一族で、現在の大阪府から「平野杜氏」を招き、清酒醸造の技術を盛岡の南郊「志和」に伝えた。この技術を今に伝えるのが、「南部杜氏」である。城下には近江商人のほか、山城(京都府)・大坂(大阪府)・伊勢(三重県)・美濃(岐阜県)・常陸(茨城県)・富山など主に西日本から多くの商人が定住し、後にその末裔は後世に企業や銀行の創設に関わるなど、盛岡の文化・経済を大きく動かすこととなる。

殊に京都(京)からの移住者は城下の要地に集住し、ここは「京町」(現在の本町通)と呼ばれのちには勧業銀行が置かれるなど、近代まで盛岡の主要な商店街であった。また上方関西地方)出身の武士が集まって住んだ町は「上衆小路」と呼ばれ、仙北町(秋田県仙北市からの移住者が集住)、津軽町(青森県津軽地方からの移住者が集住、現在の津志田)のほか、「岩手町・久慈町」(現在の材木町)など、領内各地からの移住者による町も生まれた。

万治 2年(1659年)、茶道に造詣の深い第2代藩主・南部重直は、甲斐から鋳物師の「鈴木縫殿(ぬいと)家綱」(現・鈴木盛久工房)を、京都より釜師「小泉仁左衛門五郎七」(現・御釜屋)を召抱え、領内の良質な砂鉄を元に鉄瓶の製作を進めた。以後、南部釜と称される南部鉄器の本格的な生産が開始される。

寛文 4年(1664年)9月、第3代藩主の南部重直が、江戸幕府第4代将軍・徳川家綱に後継者選定と家の存続を事前に願って江戸で死去した。

重直の将軍への願いを知らされていなかったためか、国元は相続人と家の存続を巡って一時不穏となる。同年12月、家綱は裁定して、2万石減封した上で盛岡8万石を異母弟の七戸重信に与えて家を継がせ、重直・重信双方の異母弟の中里直好に八戸2万石を新規に与えて家を興させ、事実上の分割相続を行った。

天和 3年(1683年)、重信は新田開発高を幕府に届け出て高直しを願い出たが、領内各村に一定の割合を乗じて算出した増加分で盛岡藩の領地域はそのままで10万石に復した。

元禄 7年(1694年)、第5代藩主・南部行信は弟の南部政信(麹町候)に5,000石、同じく南部勝信(三田候)に3,000石を分知して、それぞれを旗本として出仕させる。

元禄16年(1703年)、越前国金剛院の僧「空念」の推挙により、南に「南部の繁昌」を願い、毒ケ森を南昌山と改名した。

文化 5年(1808年)には、第11代藩主・南部利敬蝦夷地警備の功により、幕府によって領地加増を伴わない20万石への高直し(文化の高直り[3])が行われる。これ以降藩主は従四位下「盛岡侍従」の官位を名乗ることとなる。

石高が上がり藩の格式は高くなったものの、実収入の増加が全く伴わない上、藩主主導の放漫経営や散財、無理に高くした格式に見合った参勤交代や蝦夷地(現在の北海道)警衛など、より多くの兵力準備と動員を義務づけられ、負担が倍増する事態を招いた。以後、盛岡藩の財政は新渡戸傳新渡戸稲造の曽祖父)によって立ち直されるまで慢性的な赤字体質となり、破綻寸前まで追い詰められる。

文化14年(1817年)、城主大名から准国主をとびこえて「国持大名」に準じたことを記念し、以後領国を「南部」から「盛岡」へ改めるよう通達した[4]。これにより、城下町盛岡と領国名とが同一となった(明治以降に出版された本の中には、領分の改名をもって藩名が南部藩から盛岡藩に改名されたと解釈するものもあるが[5]、江戸幕府はこれ以降も領分名として「南部」を使い続けており、本通達が有効なのは所領内のみである。藩が制度化した慶応4年の政体書公布以降も明治政府はしばらく「南部藩」の呼称を使い続けており、「盛岡藩」に一本化されるのは藩庁所在地をもって藩名とする原則が浸透した明治元年末以降である)。

文政 2年(1819年)、盛岡藩から新田分5,000石を支給されていた分知旗本家(当時の当主・南部信誉)に新たに6,000石を支給し、支藩の七戸藩(別名:盛岡新田藩)を立てる(ただし、盛岡藩から蔵米を支給され、実体領を持たない大名で、七戸に藩の政庁を置くのは明治維新後の明治2年(1869年)のことである)。

この時期の商業として特筆されるのは、創始を元和年間に遡る「菊の司」(現・菊の司酒造)以下、明和4年(1767年)に醸造業「近江屋」(現・平金商店)、文化13年(1816年)に荒物商「茣蓙九」(現・茣蓙九森九商店)、安政4年(1857年)に薬種商「村源」、慶応2年(1866年)鉈屋町に興された木綿商が「川徳呉服店」(現・川徳)として発展するなど、形態を変えながらも、藩政時代創業の商家が現在にまで存続している例が多いことである。

文政 4年(1821年)4月、相馬大作事件が起こる。この南部藩を窮地に追い込むテロ事件は、250年前に津軽氏(弘前藩主)が南部氏から独立したことを発端としたとされ、南部氏やその家臣の津軽氏に対する遺恨の深さを示すものである。藩は窮地に立たされるが、一部の江戸市民や浪人は「文政の大石内蔵助」「赤穂義士の再来」と騒ぎ立てた[6]


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