南部 忠平
選手情報
フルネーム南部 忠平
国籍 日本
種目走幅跳、三段跳
生年月日1904年5月24日
生誕地 日本、北海道札幌区(現:札幌市)
没年月日 (1997-07-23) 1997年7月23日(93歳没)
死没地 日本、大阪府吹田市[1]
自己ベスト走幅跳:7m98(1931年、当時世界記録)
獲得メダル
日本
陸上競技
オリンピック
金1932 ロサンゼルス男子三段跳
銅1932 ロサンゼルス男子走幅跳
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南部 忠平(なんぶ ちゅうへい、1904年〈明治37年〉5月24日[1] - 1997年〈平成9年〉7月23日[1])は、日本の陸上競技選手。走幅跳の元世界記録保持者。ロサンゼルスオリンピック陸上男子三段跳金メダリスト。 北海道札幌区(現札幌市)出身。札幌中心部の狸小路商店街1丁目で酒屋「三国屋南部源蔵商店」を営んでいた[2]南部源蔵の3男として生まれ[3]、小学校高等科から攻玉社中学(現・攻玉社中学校・高等学校)に進学し、後に北海中学(現在の北海高等学校)へ転校する[4]。腕白な子供であったが体はあまり強くなく、小学4年から始めた乗馬で体力を養った[5]。北海中学3年の時に上級生にスカウトされて徒歩部(現・陸上競技部)に入部した[6]。部長は柔道家で陸上競技の指導ができず、当初は試合に出ては負けを繰り返していたが、大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)主催の夏季練習会(千葉・房州)に参加した同級生が野口源三郎らから陸上競技の技術を学んで帰り、練習法を確立して、中学5年には全道中学校陸上選手権で100m、200m、走幅跳の3冠を達成する選手に成長した[7]。なお南部は全道中学校陸上選手権で母校を勝たせるためにわざと留年して中学5年生を2回経験している[7]。1924年(大正13年)にはパリオリンピックの代表選考会に出場し、三段跳で織田幹雄を破って優勝したが、「織田に勝ったら殴られる」という噂を鵜呑みにして札幌に逃げ帰ったため代表選手には選ばれなかった[8]。札幌の百貨店へ行って階段でトレーニングを行ったりして、従業員にたたき出されたというエピソードが残っている。また冬場も雪の上を走ることで足腰を鍛えたほか、当時冬場は運休も多かった札幌市電の線路をレーンに見立てて練習したり[注 1]、札幌駅の機関車のロッドや札幌競馬場の競走馬のスタートなどから走り方を研究していたという[9]。 1924年(大正13年)、当時陸上競技が盛んであった札幌鉄道局に就職し、第7回極東選手権競技大会(マニラ)で初めての国際大会を経験する[10]。その後、早稲田大学競走部から強い勧誘があり、1926年(大正15年)に早稲田大学へ進学する[11]。在学中スランプに陥り、走幅跳の助走を鍛えようと加賀一郎から助言を得たがうまくいかず、人見絹枝と走幅跳で勝負して1cm差で敗北するなど苦しみを味わった[12]。こうした中で出場した1928年(昭和3年)のアムステルダムオリンピックで陸上男子三段跳で4位に入賞する[13]。1929年(昭和4年)に早稲田大学を卒業後、一旦は南満州鉄道に就職するも学閥争いへの嫌気と内地で競技力を磨きたいという思いから退職し、同年末に美津濃(現在のミズノ)に就職、大阪へ移住する[14]。千里山へと定住し、当時在住していた織田幹雄と共に関西大学運動場で猛練習を重ね、1932年(昭和7年)8月4日のロサンゼルスオリンピックの三段跳では優勝(金メダル)の快挙を成し遂げた[注 2]。また、三段跳より先に行われた走幅跳でも銅メダルを獲得しているが、南部にとって三段跳は余技で走幅跳が本業と考えていたことから、走幅跳の銅メダルは大きな失望で、競技後にハリウッド映画を観に行ったものの全く内容が頭に入ってこなかったという[15]。帰国後は、織田と2人で陸上競技のコーチをしながら日本中を行脚し、秋に結婚した[16]。1934年(昭和9年)夏、女子オリンピックの指導者としてロンドンに向かう途中のシンガポールで練習中にアキレス腱を負傷したのが致命傷となり、現役を引退した[17]。 南部は1931年(昭和6年)10月27日には明治神宮外苑競技場(東京)で走幅跳7m98(+0.5)の世界記録を樹立した[18][19]。なお、この記録は39年間、日本記録として残り、1970年(昭和45年)6月7日に小田原市城山陸上競技場で山田宏臣(東京急行電鉄)が8m01を跳ぶまで破られなかった。当時は土の助走路でスパイクも旧式であり、現在のタータン(全天候型トラック)とスパイクの性能を考えると、いかに南部の記録が突出していたかがわかる。 また、南部は走幅跳だけでなく短距離トラックのレースにも出場していた。日本陸上競技選手権大会男子100メートル競走で2回(1930年、1933年)優勝しており、1931年4月には吉岡隆徳ら3人の記録を破る10秒6の日本新記録(1ヶ月後に吉岡に抜き返される)、1933年9月には吉岡と並ぶ10秒5の日本タイ記録(約2週間後に吉岡が更新)をそれぞれ樹立している。
来歴