南郡(なん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から隋代にかけて、現在の湖北省荊州市一帯に設置された。 紀元前278年(秦の昭襄王29年)、秦の白起が楚を攻撃し、郢を占領すると、南郡が置かれた[1]。 紀元前206年、項羽が共敖を臨江王として立てると、南郡は臨江国となった。紀元前202年(漢の高帝5年)、臨江国が滅ぼされ、再び南郡が設置された。紀元前155年(景帝2年)、皇子の劉閼于が臨江王として立てられると、南郡は再び臨江国となった。紀元前153年(景帝4年)、劉閼于が死去すると、臨江国は廃止され、また南郡が設置された。紀元前150年(景帝7年)、皇太子劉栄が廃位されて、臨江王となると、南郡はまた臨江国となった。紀元前148年(景帝中2年)、劉栄が自殺すると、臨江国は廃止され、また南郡が設置された。 前漢の南郡は荊州に属し、江陵・臨沮・夷陵・華容・宜城・?・郢・当陽・中廬・枝江・襄陽・編・?帰・夷道・州陵・?・高成・巫の18県を管轄した。『漢書』によれば、前漢末に12万5579戸、71万8540人があった[2]。 王莽のとき、南順郡と改称された。後漢が建てられると、南郡の称にもどされた[3]。 後漢のとき、南郡は江陵・巫・?帰・中廬・編・当陽・華容・襄陽・?・宜城・?・臨沮・枝江・夷道・夷陵・州陵・?山の17県を管轄した[4]。 晋のとき、南郡は江陵・編・当陽・華容・?・枝江・旌陽・州陵・監利・松滋・石首の11県を管轄した[5]。 南朝宋のとき、南郡は江陵・華容・当陽・臨沮・編・枝江の6県を管轄した[6]。南朝斉のとき、南郡は江陵・華容・当陽・臨沮・編・枝江の6県を管轄した[7]。 江陵を首都として後梁が成立すると、江陵総管府が置かれた。 587年(開皇7年)、隋が後梁を併呑すると、また江陵総管府が置かれた。600年(開皇20年)、荊州総管府に改められた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、荊州は南郡と改称された。江陵・枝江・安興・紫陵・公安・松滋・宜都・長楊・当陽・長林の10県を管轄した[8]。 621年(武徳4年)、蕭銑が滅びると、南郡は唐の荊州となり、南郡の呼称は姿を消した[9]。
概要
脚注^ 『史記』秦本紀
^ 班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、303-305頁。
^ 班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、303頁。
^ 『後漢書』郡国志四
^ 『晋書』地理志下
^ 『宋書』州郡志三
^ 『南斉書』州郡志下
^ 『隋書』地理志下
^ 『旧唐書』地理志二
関連項目
睡虎地秦簡(雲夢秦簡) - 秦の南郡に属する県の官吏が残した竹簡
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