南行徳町
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みなみぎょうとくまち
南行徳町
廃止日1956年10月1日
廃止理由編入合併
南行徳町 →
市川市
現在の自治体市川市
廃止時点のデータ
日本
地方関東地方
都道府県千葉県
東葛飾郡
市町村コードなし(導入前に廃止)
面積5.62 km2.
総人口7,039人
国勢調査1955年
隣接自治体千葉県市川市、船橋市、東葛飾郡浦安町
東京都江戸川区
南行徳町役場
所在地千葉県東葛飾郡南行徳町
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度40分18秒 東経139度54分05秒 / 北緯35.67167度 東経139.90136度 / 35.67167; 139.90136座標: 北緯35度40分18秒 東経139度54分05秒 / 北緯35.67167度 東経139.90136度 / 35.67167; 139.90136
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南行徳町(みなみぎょうとくまち)は、1889年(明治22年)4月1日から1956年(昭和31年)10月1日まで存在した千葉県東葛飾郡。現在の千葉県市川市南部。

ここでは前身の南行徳村(みなみぎょうとくむら)についても取り上げる。
地理

北東は行徳町に、南西は浦安町に、北西は江戸川を隔てて東京府南葛飾郡1932年より東京市江戸川区)に、南東は東京湾に囲まれており、地勢は平坦であり[1]、江戸川の洪水海嘯の被害をたびたび受ける[1]。また、江戸時代から明治にかけて塩田で知られた地域である。
歴代首長
南行徳村

歴代村長は以下の通りである[2]

代氏名在任期間
1川合七左衛門明治22年5月11日?明治30年5月10日
2小川六郎明治30年5月11日?明治34年5月10日
3田中忠右衛門明治34年5月11日?大正6年6月1日
4近藤喜八大正6年6月2日?大正9年1月24日
5小川貞吉大正9年3月9日

歴史

室町時代関東管領家の家臣吉田佐太郎を代官として付近を治めており、その後、後北条氏や徳川氏が支配した[3]明治時代になると廃藩置県により、小菅県印旛県の所属を経て千葉県の管下となり、明治9年に東葛飾郡所属となる。明治20年には、欠真間・新井・当代島・湊新田・湊押切・伊勢宿などを合して南行徳村となる[3]
町名の由来

当町は古くは行徳領の一部に属し、「本行徳」と呼ばれる中心地域の南に位置していたことによる。
沿革

1889年(明治22年)4月1日 - 東葛飾郡新井村、欠真間村、湊村、押切村、湊新田が合併し、東葛飾郡南行徳村となる。

1937年(昭和12年)4月15日 - 町制施行。東葛飾郡南行徳町となる。

1956年(昭和31年)10月1日 - 市川市に編入、消滅する。

現在の町名

おおむね相之川、新井、押切、欠真間、香取、行徳駅前、島尻、新浜、広尾、福栄、湊、湊新田、南行徳に相当する。
脚注[脚注の使い方]^ a b 『千葉縣東葛飾郡誌(復刻版)』千葉縣東葛飾郡ヘ育會編輯、千秋社昭和63年10月5日発行、1734頁
^ 『千葉縣東葛飾郡誌(復刻版)』千葉縣東葛飾郡ヘ育會編輯、千秋社昭和63年10月5日発行、1735頁
^ a b 『千葉縣東葛飾郡誌(復刻版)』千葉縣東葛飾郡ヘ育會編輯、千秋社昭和63年10月5日発行、1735頁

関連項目

千葉県の廃止市町村一覧


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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