南蛮貿易
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狩野内膳作『南蛮人渡来図』(右隻)神戸市立博物館所蔵17世紀初頭の朱印船貿易のルート[1]

南蛮貿易(なんばんぼうえき)は、日本の商人、南蛮人時代の中国人、およびヨーロッパとアジアの混血住民との間で行われていた貿易である。南蛮人とは、ポルトガル人スペイン人を指す。例えばキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルがいる。時期は16世紀半ばから17世紀初期、場所は東南アジアから東アジアの海域にかけて行われた。
概要南蛮貿易(16-17世紀、狩野内膳画の南蛮屏風より)

ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊がインドのカリカットに到着したのちに、ポルトガル船はインド洋を横断してアジア貿易に進出する。ポルトガルはアジアの産物をヨーロッパへ運んだ他に、東南アジアや東アジア圏内の中継貿易も行った。南蛮貿易は明のマカオを拠点としたポルトガル人を中心に営まれ、重要な品物には日本のと中国の生糸があった。

日本では16世紀前半に朝鮮半島から灰吹法が伝来すると銀の産出量が増加して、倭銀とも呼ばれてやポルトガルに求められた。又、日本は南蛮人に天羅を教えた。の税制によって銀が必要とされていたが、海禁政策で日本との貿易は禁じられていた。そこでポルトガル商人は、日本の銀で明の生糸を購入して日中の中継貿易を行った。マカオの他に拠点となったのは長崎港、ポルトガルが占領したマレー半島のマラッカ、スペインが占領したスペイン領フィリピンのマニラだった[2][3]






歴史
南蛮貿易の開始前

アフリカを周回してインド洋への航海を実現したポルトガルは、16世紀前半にインド洋の港町を攻撃して拠点を建設した。アフリカ東岸からアジアにかけてのポルトガル貿易は、インドのゴアにあるポルトガル領インドの政府が管理した。インド副王のアフォンソ・デ・アルブケルケは東南アジア貿易の中心であるマラッカ王国を占拠すると、アラブ人のムスリム商人全員の殺害を命じた。マラッカにいたグジャラートのムスリム商人は、ポルトガルを避けて東南アジア各地に移住した[4]

ポルトガル商人は明との貿易を望んだが、最初に上陸したジョルジ・アルヴァレスは民間商人だったため朝貢は許可されず、トメ・ピレス(ポルトガル語版)が使者となって国交を求めた時はマラッカ占拠が悪評となって失敗した。その他に、インド洋と同じように軍事力によって貿易拠点を求めるポルトガル人がいたが明軍に敗北した。公式な貿易の道が断たれたポルトガル商人は、密貿易を始める[5]。ポルトガル人には中国船に同乗する者もいたので、明や朝鮮王朝からは仏郎機(ふらんき)と呼ばれて倭寇と同一視された[6]。このため、明軍の倭寇対策によってポルトガル人も攻撃された[7]

ポルトガル商人は寧波の沿岸で貿易を行い、ディオゴ・ペレイラによって商人の集団が率いられた。ペレイラの出身はアゾレス諸島ともインドのコチンの混血とも言われており、のちにイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルの渡航にも協力した。マラバール産の胡椒はゴアからリスボンへと運ばれたが、マラッカに集められた胡椒は中国へ送られており、中国の胡椒消費量はヨーロッパでの消費量に近いほどだった[7]
南蛮貿易の開始とマカオ獲得1639年のマカオの地図交易のため日本に到着し積み荷を下ろすポルトガル人(16 - 17世紀ごろの作品)

1543年に海商で倭寇でもある王直の船が種子島に漂着し、ポルトガル人も乗船していたことが貿易のきっかけとなった。ポルトガル船はその前年に琉球王国に到着していたが、琉球人はポルトガルがマラッカを攻撃して占拠したことを知っていて、貿易を拒否した。

ポルトガル船船長の一人ジョルジ・アルヴァレス(既出の明に初上陸した人物とは別人)は、山川で人を殺めたことに悩むヤジロウを載せてマカオへ向かい、インドのゴアで宣教活動をしていたフランシスコ・ザビエルに引きあわせて懺悔させた。これがザビエル来日のきっかけとなったという。ヤジロウは日本人初のキリスト教徒と言われている[8]。ザビエルは日本に布教をするために日本三津の一つである薩摩国坊津に到着して、のちに平戸山口豊後国に行き布教を始める。南蛮貿易の港は平戸と豊後から始まり、九州の諸大名はポルトガルとの貿易を受け入れた。肥前国松浦隆信は平戸で王直やポルトガル人を歓迎し、薩摩国の島津氏は日本の商人を後押しして、ポルトガル船は頻繁に訪れるようになった。ドゥアルテ・ダ・ガマ、ルイス・デ・アルメイダメンデス・ピントらの商人はイエズス会と協力して、ポルトガル人を組織した。ポルトガル王室艦隊も密貿易や海賊の鎮圧にあたり、司令官のリオネル・デ・ソーサは明からマカオの上陸を許可される。やがてポルトガル人はマカオに居住を始めて、地租を条件として広州の海道副使からマカオの居住権を獲得した。こうしてポルトガル領マカオを拠点として、日本・中国・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。ピントの『東洋遍歴記(ポルトガル語版)』には、琉球王国や薩摩国についての記録もある。マカオにはポルトガル人や中国人の他に、インドや東南アジアからも住む者が現れ、人口が次第に増えていった[9]
定期航路の開設

マカオ・日本間の定期航路が開設されて、司令官であるカピタン・モールの商船が往来した。島原に最初に来航したカピタン・モールはフェルナンド・メネゼスだった。これ以降は、カピタン・モールの管理貿易による定期船と、私貿易の個人商船が並立した[10]。薩摩国には1570年までに18隻のポルトガル船が来航しており、倭寇のジャンク船を含めればそれ以上の数となった[8]

定期航路によって平戸への来航が増えると、平戸の近隣の領主である大村純忠は日本初のキリシタン大名となって、永禄4年(1561年)に起きた宮ノ前事件の間隙を突き、横瀬浦を開港して貿易で繁栄する。のちに戦火での焼失が原因で横瀬浦から福田浦、そして長崎へと貿易港が移り、純忠は長崎を教会領としてイエズス会に寄進して、貿易を求める日本商人が長崎に集中するようになった。大村氏は長崎を直轄にしようとしたが、長崎は教会領の自治都市として発展し、周辺の領主と合戦を繰り返した[11]織田信長豊臣秀吉は、基本的に南蛮貿易を推奨した。信長は安土楽市令において、道路通行の強制や宿場町での積み替えを強制しており、当時のヨーロッパの絶対主義国家による都市振興策と共通点をもつ。このため、信長の政策にはイエズス会士から得た情報が影響したという説もある[12]。秀吉は貿易の利益を望みつつも、キリスト教に対してはバテレン追放令を発布して長崎を直轄領とした[13]江戸幕府の成立後は、長崎は幕府の直轄領となった。
布教と貿易リスボン美術館蔵 作者不詳 南蛮屏風(部分)。南蛮寺が描かれている

商品貿易とともに日本に入ってきたのがキリスト教であり、ポルトガル商人とイエズス会宣教師は東アジアに進出を始めた当初から協力関係にあった。ザビエルは薩摩国に上陸してから、中国の泉州と日本のでのポルトガル商館の建設や、イエズス会が商館の関税を会の財源にすることをマラッカの長官に提案している。ザビエルは、日本で需要がある商品のリストも作った[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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