南硫黄島
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南硫黄島南硫黄島遠景(2007年1月撮影)
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地理
場所太平洋
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯24度14分2秒 東経141度27分48.8秒 / 北緯24.23389度 東経141.463556度 / 24.23389; 141.463556
諸島火山列島小笠原諸島
面積3.54 km2 (1.37 sq mi)
海岸線7.5 km (4.66 mi)
最高標高916 m (3005 ft)
行政
日本
都道府県東京都
支庁小笠原支庁
市町村小笠原村
人口統計
人口0人
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南硫黄島(みなみいおうとう)は、小笠原諸島火山列島の一部をなし、東京都小笠原村に属する無人火山島火山列島(硫黄列島)の最南端にあり、東京都区部の南約1,300km、硫黄島の南約60km、グアム島の北約1,320kmに位置する。面積3.54km2、周囲約7.5km

外観はピラミッド状の急峻な地形で、100-200mの垂直に近い海食崖が島を取り巻き、海岸には幅50m未満の浜が島をほぼ一周する。最高標高は916m伊豆諸島小笠原諸島の中では最高峰[注釈 1]であり、東京都内では第6位である。

日本国政府によって島全域が南硫黄島原生自然環境保全地域に指定されており、原生自然環境保全地域の中では唯一、全域が立入制限地区になっている。

本島がもたらす日本排他的経済水域 (EEZ)は、北マリアナ諸島パハロス島(南東に約290海里=540km)によるアメリカ合衆国のEEZと接しており、「国境の島」と呼ばれることもある。
歴史南硫黄島遠景。頂上部は雲に覆われている南硫黄島空中写真国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

人間が目撃した最古の記録は、1543年スペイン船「サン・フアン」による発見[1]で、「サン・アグスティン火山(Volcan de San Agustin)」と命名された。その後1779年イギリス船「ディスカバリー」と「レゾリューション」が目撃、サウス・アイランド(South Island)と命名された。

有史以来初めてこの島と人間が関わることになるのは、1885年明治18年)末に函館を出航して、青森県下北に向かった帆船「松尾丸(一説には「松王丸」とも)」が時化に遭い、83日間漂流した末に、翌1886年(明治19年)3月に南硫黄島に漂着した事件であった[1][2]。乗員10名のうち1名は漂流中死亡し、9名が島に着いた。このうち佐賀喜作、金成広吉、遠藤とらの男女3名が島に残り、6名が島を去った。島に残った3名は3年半の生活ののち、母島の漁船「新栄丸」の吉村浅治船長によって救助された。3名は島で鳥や卵、魚介類を食べ、岩滴を飲んで生活したという[1]。この事件以降、年に1回、小笠原・硫黄島航路の定期船が、硫黄島からさらに南の南硫黄島まで来訪し、汽笛を鳴らしながら島を周回して漂着者の有無を確認することが慣例となった[1]。この漂着者の確認は、太平洋戦争が勃発するまで続けられた[1]

1891年(明治24年)9月9日勅令によって正式に日本の領土になり、島名が「南硫黄島」と定められた[3]。1911年には海軍水路部と陸地測量部が海防艦松江」で来航し上陸、北側中腹の標高45メートルに三角点を設置した。南硫黄島を含む火山列島(硫黄列島)は、東京府小笠原島庁の所管となり、1926年大正15年)に小笠原島庁は小笠原支庁に改称された。

その後、相次いで植物調査を目的とした探検が計画・実施された。まず1935年昭和10年)10月21日-10月22日に小笠原営林署長の町田勇作、林業試験場小笠原出張所の岡部正義ほか16名が小笠原支庁所属の海幸丸で渡航、西側より上陸し、約700メートルまで登って植物調査をした。これが日本人として初めての南硫黄島探検だった。

1936年(昭和11年)には、広島文理科大学助教授(当時)堀川芳雄、東京帝国大学理学部植物学教室(当時)津山尚が植物調査を計画、実施し東京文理科大学植物学教室(当時)小林義を招いた総勢9名が小笠原支庁所属の海幸丸で南東岸に上陸、登頂に成功した[4]。植物採取を行った結果、新種、新変種、新分布の植物が発見されたが、それ以降は戦争が勃発したこともあって、本格的な調査は行なわれなかった。

太平洋戦争終戦直後、島の調査のためアメリカ軍が上陸した際、1名の日本人が発見された。この日本人は戦闘機パイロットであったのが、アメリカ軍により撃墜され、南硫黄島に漂着したという説や、あるいは終戦直前に日本陸軍が陥落後の硫黄島とアメリカ軍の情報収集を目的として密かに派遣し、南硫黄島もしくは北硫黄島に渡った兵士4名のうちの1人という説があるが、いずれも事実であるかどうかは不明である。

1968年(昭和43年)、アメリカから日本に返還されると、この島の自然環境の貴重さを考慮して、1972年(昭和47年)11月24日、国の天然記念物天然保護区域)に指定され、原則として学術調査などの理由以外で上陸することは出来なくなった。また1975年(昭和50年)5月17日、日本初の原生自然環境保全地域にも指定され、1982年(昭和57年)6月約10日間にわたって環境庁による本格的な総合調査が行なわれた。これ以降しばらくの間、島に上陸する者はいなかった。しかし、2004年平成16年)6月14日広島市医療法人せのがわが保有するプレジャーボート「WATATSUMI(わたつみ)」が北東岸に座礁、乗員12名のうち9名が上陸、残り3名はボートで救助を待った。この9名が結果的に22年ぶりに南硫黄島に上陸した人間となった。この乗員12名は全員無事救助された[5]

ここ数年になって[いつ?]「北硫黄島・硫黄島・南硫黄島三島周遊クルーズ」が、小笠原海運主催で所属船おがさわら丸を使い数回実施されている。また、飛鳥などの大型クルーズ客船が、旅のイベントの一つとして、航路の途中で本島や沖ノ鳥島南鳥島に立ち寄って島を周回したこともある。ただし、いずれの場合も島を船上から望見するのみで、上陸はしない。以上のように南硫黄島と人間との関わりはまだ浅く、上陸も数えるほどしかない。


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