南画
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南画(なんが)とは、中国の南宗画に由来し、これを日本的に解釈した絵画であり、江戸時代中期以降に発展をみた絵画様式である。文人画(ぶんじんが)ともいう。絵画のみならず、漢詩俳句といった言語芸術)と、それを記したである画賛視覚芸術)を組み合わせた芸術であるが、絵のみで成立していることも多い。本項では、日本における文人画については特に断りのないかぎり南画として言及する。

「南画」という用語そのものの定着は、幕末から明治時代にかけてのことである[1][2]。日本においては、新たな絵画様式への模索と中国の文人生活への憧憬により始まった。江戸中期の祇園南海柳沢淇園らに始まり、池大雅与謝蕪村らにより大成、江戸時代後期に一大画派を形成した。絵画様式としては、中国の南宗画・文人画の影響のもとにはじまったものの、北宗画大和絵をはじめとした他の要素も取り込むことにより、独自の様式として成った。また、地域・身分を超えたつながりを持った文人同士の交わりのなかで生み出された作品も多い。明治時代以降は価値観・社会制度の変化により衰退したが、富岡鉄斎らの活躍により「日本画」を生み出すこととなった。
前史
南宗画「中国の絵画#中国絵画理解のための基本語彙」も参照董其昌の自画像『自題小像』

南宗画という発想は、17世紀莫是龍の思想を受け継いだ董其昌(1555年 - 1630年)の画論[注釈 1]画禅室随筆』によって流布した[4]。すなわち、(大乗仏教の)南北二宗があるのと同様、絵画にも南北二宗がある。李思訓から馬遠夏珪に連なる北宗派の「鉤斫之法」(鉄線描、刻画)に対置されたものが南宗であり、王維の画法?淡(せんせん、暈し表現)にはじまり、董源、巨然(英語版)、米?米友仁元末四大家に連なる水墨、在野の文人士大夫表現主義的画法を称揚した流派が南宗画派である[注釈 2][4][5]

なお、『画禅室随筆』は「文人画」という言葉も絵画史上初めて用いている[4]。董其昌は、「文人画」を制作者の身分・社会的ステータス[注釈 3]に、「南宗画」を表現のスタイルに着目したものとしてそれぞれの用語を使い分けてはいたものの、彼自身、文人・士大夫が描いた絵のうち南宗画様式のものを文人画として位置づけようとしていた。その結果として、後代の人々も両者を一致した概念として理解するようになった[1]

董源『洞天山堂図』

米?『春山瑞松』

黄公望『黄公望天池石壁図軸』

倪?『清?閣図軸』

呉鎮『漁夫図軸』

王蒙『青卞隠居図軸』

董其昌『董其昌山水軸』

?賢(英語版)『山水画』

王原祁(英語版)『松岡霖雨軸』

八大山人『白梅図』

日本における受容松花堂昭乗『樫鴉図』

日本にとっての文人画の第一波ともいうべき流れは、董其昌が生きた明の時代(16世紀)にあたる室町時代に、水墨画の分野を通じてもたらされていた。それにも関わらず、日本側で受容した層が五山文学を背景とした禅宗世界、すなわち禅僧たちのコミュニティという限られた領域であったため、室町時代の文人画様式が後世に及ぼした影響は限定的なものにとどまった[7]。この時期には、のちに記された桑山玉洲の画論『絵事鄙言』(1799年刊)の中で南宗文人画の先駆者として言及される、松花堂昭乗が活躍した(後述[8]

江戸中期に入り、文人画の第二波が日本に伝えられると、南画はいよいよ花開くこととなった。南画が隆盛した要因は複合的なものであった。外部的な要因としては黄檗宗の伝来[9]・画人、商人の渡来[10]画譜の伝来[11]があり、内部的な要因としては狩野派土佐派の停滞[6][2]・日本経済の著しい発展などがあった[12][13]。また、町人文化の発展と漢学儒学の盛行も、宝暦明和年間以降の文人画の定着を後押しした[14][15][注釈 4]。美術史研究家の吉沢忠は、初期の日本南画家たちが描き始めるに至った内的要因として、新しい画風の模索[注釈 5]と、理想化された文人生活への憧憬があったのではないか、と述べている[17]。なお、南画と同時期に興隆した絵画に「写生画」がある。文人画と写生画は、理想主義的写実主義の傾向と表現主義的傾向という芸術性の違いこそあれ、時代性・文化的背景・素材の選択など、成立の根拠の多くを同じくしていた[18]北山寒厳『林和靖図』 林和靖(林逋)は宋代の詩人。彼をはじめ、陶淵明や蘇東坡といった中国の人物の生き様は、日本の文人画家たちに彼らへのあこがれや共感を抱かせ、南画の題材として描かせしめた[19]
制作姿勢

江戸期の南画家は、上述の通り、文人画へのあこがれのみならず、文人としての制作行為とライフスタイルを含めた総体としての「文人画スタイル」への憧憬から創作活動を行っていた[20][15]。したがって、南画をただの絵にとどめず総合芸術とする詩書画一体[注釈 6]という考え方や、煎茶・焚香(英語版)・立花の愛好[22]、内面性の重視といった理論[23]は彼らの制作にあたって重要であった。


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