南満州鉄道
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南満洲鉄道株式会社
The South Manchuria Railway Co., Ltd.

大連の南満洲鉄道本社
種類株式会社
本社所在地 大連日本租借地関東州)(1906-11)
中華民国大連(日本租借地関東州)(1911-33)
満洲国奉天市(1933-43、鉄路総局)
満洲国新京市(1943-45)
本店所在地関東州大連市東公園町30
設立1906年11月26日
事業内容旅客鉄道事業、貨物鉄道事業他
代表者当項目「歴代代表者」節を参照
資本金当項目「資本金」節を参照
売上高当項目「営業実績」節を参照
主要株主大蔵大臣 50%
主要子会社華北交通大連都市交通満洲航空昭和製鋼所
関係する人物後藤新平(初代総裁)
特記事項:1945年9月閉鎖、1957年清算結了。
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南満洲鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:南滿洲鐵道?株式會社[注釈 1][1])は、南満洲の鉄道会社[2]日露戦争に勝利した後、1905年明治38年)に締結されたポーツマス条約に基づき、東清鉄道南満洲支線長春旅順間鉄道)やその支線はロシアから日本に譲渡され[3]鉄道事業および付属事業を経営する目的で1906年(明治39年)に設立された半官半民企業であり[4]、日本の満洲経略において重要な位置を占めた企業へと発展した[2]。略称は満鉄(まんてつ、旧字体:滿鐵)。
概要「野戦鉄道提理部」および「中国長春鉄路」も参照南満洲鉄道を走る列車

南満洲鉄道株式会社(満鉄)は、日露戦争の勝利後、1905年明治38年)9月に締結されたポーツマス条約によって、ロシア帝国から大日本帝国に譲渡された東清鉄道(中東鉄道)南満洲支線長春旅順間鉄道)約764キロメートルとそれを含む鉄道事業(当初の総延長約1,100キロメートル)および付属事業を経営する目的で、1906年(明治39年)11月に設立された半官半民の国策会社である[2]。その前身は、日露戦争における満洲軍野戦鉄道提理部であり、当初保有していたのは、占領に成功し、ロシアから譲与を認められた長春以南の南満洲支線の鉄道施設および付属地、そして物資輸送のため日本軍が建設した軽便鉄道安奉線安東奉天間鉄道)とその付属地であった[5]。満鉄は、撫順炭鉱および煙台炭鉱も併せて経営し、各鉄道駅前などに設定された鉄道附属地(満鉄附属地)において都市経営と一般行政(土木・教育・衛生)を担うなど広範囲にわたる事業を展開した[2][5]。本社は関東州大連市(現、中華人民共和国遼寧省大連市)に置かれた[6]

1931年昭和6年)9月に満洲事変が勃発し、1932年大同元年/昭和7年)3月に満洲国が成立すると同国内の鉄道全線の運営・新設を委託された[2]1933年(大同2年/昭和8年)2月、満洲国管轄下の鉄道は、満鉄が満洲国政府に対して供与する借款担保というかたちで、委託経営がなされることとなり、3月より実施された[7]奉天市(現、遼寧省瀋陽市)に鉄路総局が設置され、満鉄本社内には鉄道建設局が置かれた[7]。また、1935年康徳2年/昭和10年)には日満間で鉄道売却の協定が成立し、形式上は満洲国の所有に帰することとなった[2]

最盛期には日本の国家予算の半分規模の資本金、80余りの関連企業をもつ一大コンツェルンで、鉄道総延長は1万キロメートル、社員数は40万人を擁した[8]。満鉄は、鉱工業をはじめとする多くの産業部門に進出し、日本の植民地支配機構の一翼をになったが、1945年(康徳12年/昭和20年)、第二次世界大戦末期のヤルタ協定によって連合国への接収が決まり、1945年9月に受け皿となる中華民国ソビエト連邦の合弁経営主体中国長春鉄路公司が発足[2]。同時に、南満洲鉄道株式会社は敗戦国日本において閉鎖機関となった。満鉄が保有していた鉄道は、中華人民共和国成立後の1952年から1955年にかけて、中華人民共和国に引き渡された。
事業内容「昭和製鋼所」、「ヤマトホテル」、「満鉄調査部」、および「満鉄公所」も参照虎ノ門にあった満鉄東京支社(1936年撮影)大連ヤマトホテル

1904年5月、日露戦争もまだ序盤の段階で、黒木為率いる第1軍鴨緑江を渡って進撃しているとき、当時参謀次長であった児玉源太郎が、陸軍奏任通訳であった上田恭輔に対し、イギリス東インド会社について調査するよう依頼した[9]。上田の回想によれば、これは元々後藤新平が言い出したことを台湾総督府における彼の上司であった児玉が取り上げたものだったという[9]

満鉄は単なる鉄道会社にとどまらなかった。日露戦争中に後藤新平の影響を受けて児玉源太郎が献策した「満洲経営梗概」に、「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ」とあるように、「百般の施設」によって日本の植民地経営を具体化していくための組織であった[9]。「満洲経営梗概」は、児玉・後藤ラインの満洲経営方策を示すものとして、また実際に満鉄の基本的性格を規定するに至った文書として重要である[9]

満鉄は鉄道経営に加えて満洲の農産物を一手に支配し、炭鉱開発(撫順炭鉱など)、製鉄業(鞍山製鉄所)、港湾、電力供給、牧畜ホテル業(大連旅順奉天などのヤマトホテル)、航空会社などの多様な事業を行なった[10]。同時に鉄道付属地の一般行政を把握し、この地域の土木・教育・衛生事業を展開し、徴税権をも行使するなど、一企業を超えた権限を手中に収めて南満洲地域の一大拠点となった[10]。こうして満鉄はその影響力の巨大さから「満鉄王国」「満鉄コンツェルン」と称されるコングロマリットへと成長した[10]。ただし、満洲国成立後は、満洲における最大の権力者は関東軍総司令官に移り、関東軍は工業部門の統制を図るため、満鉄から各種会社を切り離したうえで重工業開発がすすめられた[11]

後藤新平の発案により1907年4月に設けられた満鉄調査部は、当時の日本が生み出した最高のシンクタンクのひとつであった[12]。これは、満鉄のユニークさを表しているともに、後藤の個性とアイディアがこめられていた[12]。調査部は、総務、運輸、鉱業、地方の各部と並ぶ重要部局であり、当時、日本企業で他に調査部を持っていたのは三井物産だけであった[12]。後藤は台湾総督府民政長官時代にも旧慣調査などを大々的に展開しており、それを植民地経営に活用していた[12]。また、日露戦後の政情不安の満洲で企業活動を展開するためには調査活動が不可欠でもあった[12]。スタッフは全員で100名前後で経済調査、旧慣調査、ロシア調査に分かれ、他に監査班と統計班があった[12]。また、インフォーマルな情報収集活動も、満鉄が各地に設けた満鉄公所においてさかんに行われており、ここでは日本人のみならず中国人も多く働いていた[13] [14]

なお、当初本社が置かれることが勅令で定められていた東京には、1907年の改正勅令で本社が大連に改められたので支社が置かれることになった[6]。東京支社は、東京市麻布区麻布狸穴町に置かれた[注釈 2]のち、赤坂区葵町2番地に移転した[注釈 3]
鉄道附属地行政「南満洲鉄道附属地」も参照大連大広場。満鉄は沿線に近代的都市計画による都市建設を行なった

満鉄には、ロシア帝国から引き継いだ鉄道附属地での独占的行政権を与えられていた[15]。附属地には、鉄道そのものに附属する、鉄路を中心とした幅62メートルの治外法権地域と駅ごとに設けられた一定面積の附属地があった[15]。駅に附属する土地の広さは駅によって異なり、やはり治外法権の特権があった[15]。それを管轄するのが満鉄地方部であり、大連、奉天、長春(のちの新京)などでは大規模な近代的都市計画が進められた[15]。日本が進出したころの奉天駅の附属地は墓地や戦争で使用された塹壕が無数に残り、荒涼とした原野も含まれていた[15]長春駅の周囲もまた、最初はほとんど荒蕪地であったという[15]。こうしたところに、満鉄社員、日本からの商社マン、日本軍人らの住宅街が建設され、日本人相手の食品店、雑貨店、理髪店百貨店宿泊施設娯楽施設などがつくられたのである[15]。満鉄附属地では、上下水道電力ガスの供給、さらには港湾学校病院図書館などのインフラストラクチャーの整備が進められ、満洲経営の中心となった。

しかし、満洲全域が日本および関東軍の勢力下に入ると、鉄道付属地に限られた軍事・行政権は必要なくなり、1937年康徳4年/昭和12年)に満洲国に返還された。これにともない、地方部の行なっていた付属地行政(土木・衛生・教育)は満洲国政府に移管され、満鉄地方部は廃止された。大量の満鉄職員(その多くは教員)が満鉄から満洲国へ移籍した。
関東軍「関東軍」も参照

関東軍は、日露戦争後にロシアから獲得した租借地、関東州と南満洲鉄道附属地の守備をしていた関東都督府陸軍部が前身である[16]


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