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『南海泡沫事件』イングランド人画家エドワード・マシュー・ウォードによる作品
南海泡沫事件(なんかいほうまつじけん、英語: South Sea Bubble)は、1720年にグレートブリテン王国(イギリス)で起こった、投機ブームによる株価の急騰と暴落、およびそれに続く混乱を指すが、主に損害を蒙ったのはフランスであった。ロバート・ウォルポールがこの混乱を収拾、政治家として名をあげる契機となった。バブル経済の語源になった事件である。 南海会社(英語: The South Sea Company, 南洋会社とも)は1711年にトーリー党の指導者で大蔵卿ロバート・ハーレーによって、グレートブリテン王国 (イギリス) の財政危機を救うため、国債の一部を南海会社に引き受けさせ貿易による利潤でそれを賄うことおよびスペインとのユトレヒト条約で得たアシエントの権利によりスペイン領西インド諸島との奴隷貿易を行うという目的で設立された。 南海会社は、密貿易やスペインとの関係悪化・海難事故等の影響で本業の業績はあまり改善せず、政府の国債を引き受けるどころか、南海会社の経営そのものも危うくなりつつあった。1718年には四カ国同盟戦争が始まり、スペインとの貿易が途絶した。 経営的に追い込まれた南海会社は、1718年に富くじを発行し、それは大成功をおさめた。このことがきっかけで、南海会社は本業の貿易業だけでなく、金融事業にも参入していくことになった。 1719年、南海会社は巨額の公債引き受けの見返りに額面等価[注釈 1]の南海会社株を発行する許可をイングランド銀行との熾烈な入札競争の末に勝ち取った。これが「南海計画」の始まりである。 しかし、この「南海計画」はこの時点で破綻が予想されていた。イングランド銀行との競争のなかで積み上がった750万ポンドの上納金は南海会社の経営にとって重すぎる負担だったからだ。この時の南海会社がこの計画を実行することは、まさにハイリスクな一発勝負を意味していた。そこで南海会社はリスクを減らす為に、以下のスキームで利潤を生み出そうと考えた。 以上の手順を繰り返すと無限に南海会社の株価は上昇し、南海会社は利益をあげ続け、株保有者、株主たちはみるみる豊かになっていく、これが南海会社か考えた「南海計画」の全体のシナリオであった。 当時のイングランド中産階級の人々は有望な投資先を探している状態で、イギリスの市場には大量の資金がだぶついていた。南海株式会社は本業の貿易活動は全く振るわなかったが、金融事業は国債引き受け会社として成長し、わずか数ヶ月の間に南海会社の株価が10倍にも高騰した。このニュースは貴族・ブルジョワジー・庶民など、幅広い階層の人々の間に広まった。また、それまで株式に興味のない人々や株式について十分な知識もない人々も株式に興味をもつようになった。彼らは株価の高騰で投機熱に浮かれ、イギリスの株式市場は空前絶後の投機ブームが起こった。 これに便乗するかたちで、当時設立が許可制だった株式会社もまた無許可で作られた。いわゆる「ヤミ会社」の株価も一気に跳ね上がった。そのほとんどは真剣に事業を興そうとする起業家たちであり、その事業内容もロンドンへの石炭供給事業や石けん製造技術の改良事業など、前産業革命期イギリス産業の発展の度合いを垣間見ることができるものであった。とはいえ、こういった真面目な事業の投資募集ばかりでなかったことも確かである[注釈 2]。 南海会社の1株あたりの価格は1720年1月には100ポンド強であったものが5月には700ポンドになり、6月24日には最高値1050ポンドをつけた。 これに押されるかたちでイングランド銀行やイギリス東インド会社などの株価も高騰を始めた。
概要
南海会社の苦悩
南海計画南海会社(1831年)
株と国債の交換は時価で行う。すなわち、南海会社の株価が額面100ポンドにつき市場価格200ポンドの場合、200ポンドの国債1枚と南海会社株100ポンド分で等価交換となる。
しかしながら発行許可株数は交換額に応じている(200ポンド交換した)ので額面200ポンド分の株が発行できる。すなわち、交換しても手元に100ポンド分、時価200ポンド分余ることになる。
これを売りに出すと売り上げの200ポンドはそのまま南海会社の利益となる。
上記の方法で南海会社の利益があがると、当然株価が上昇する。
また、1に戻る。(以後、その繰り返し)
空前の投機ブーム
価格の変動南海会社の株価推移