南洋一郎
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「池田宜政」はこの項目へ転送されています。「池田慶政」、「池田吉政」、あるいは「池田芳正」とは別人です。

南洋一郎
みなみ よういちろう
ペンネーム池田宣政、荻江信正
誕生池田宜政
(1893-01-20) 1893年1月20日
日本 東京府西多摩郡東秋留村(現:東京都あきる野市
死没 (1980-07-14) 1980年7月14日(87歳没)
職業小説家翻訳家
言語日本語
最終学歴東京府青山師範学校 卒業
活動期間1926年 - 1980年
ジャンル冒険小説児童文学、翻訳、ノンフィクション
代表作「吼える密林」(1933年)
「バルーバの冒険」(1948年)
『怪盗ルパン全集』全30巻(1958年 - 1980年、原作:モーリス・ルブラン
主な受賞歴勲四等瑞宝章(1980年)
デビュー作「懐かしき丁抹の少年」(講談社少年倶楽部』、1926年
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南 洋一郎(みなみ よういちろう、1893年1月20日 - 1980年7月14日)は、日本児童文学冒険小説ノンフィクション作家、翻訳家。教員としては東京府東京市牛込区余丁町尋常小学校などで訓導を務めた。
人物

東京府西多摩郡東秋留村(現在の東京都あきる野市)出身。本名は池田宜政(いけだ よしまさ)[1]。南洋一郎以外にも荻江信正(おぎえ のぶまさ)などの筆名や本名を用い、数々の著作を発表した。

東京府青山師範学校(現・東京学芸大学)卒業。1915年カトリック洗礼を受ける。

12歳で父を亡くし、高等小学校卒業後、学校からの紹介で小石川の商家に住み込み奉公へ出る。働く合間に独学で学んでいたが、約1年で体調を崩してしまい、帰郷する。再び働くため、1907年明治40年)、満鉄(南満州鉄道)に入社、給仕として働きながら、英語学校の夜間部で学ぶ。1910年、青山師範学校入学。1913年、師範学校を卒業、麻布で小学校教師となる。1917年、アテネ・フランセでフランス語・ラテン語を学ぶ。1924年大正13年)、語学力を買われて、デンマークコペンハーゲンで開催されたジャンボリーボーイスカウト世界大会)に派遣される。1926年、デンマークでの体験を基にした「懐かしき丁抹の少年」(丁抹=デンマーク)を本名で「少年倶楽部」誌に投稿、雑誌に掲載の運びとなり、教職の傍ら作家活動を開始する。この際編集部が名前を「池田宣政」と間違えたが、そのまま筆名として使用する。また同年結婚している。

作家生活初期は『少年倶楽部』に執筆する少年向け実話物語を中心に活動、池田宣政名義による感動実話『形見の万年筆』は、多くの教科書に収録されてきた他、池部良主演で映画化もされている。池田宣政名義では他に多数の偉人伝も発表している。

南名義では少年向け冒険小説を多数執筆、特に秘境冒険物を得意とした。1933年発行の代表作『吼える密林』(少年倶楽部連載)は、7年間で130回の重版が行われた戦前の大ベストセラーであった。

1935年、東京府東京市牛込区余丁町尋常小学校(現・新宿区立余丁町小学校)訓導を同校校長の退職勧告で自発的に退き、専業作家となった。

戦後も「バルーバの冒険」シリーズなど冒険小説や実話物語で活躍したが、特に、児童向けルパンとして愛されてきたポプラ社版「怪盗ルパン全集」の訳者として知られる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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