南沙織
[Wikipedia|▼Menu]

南 沙織
出生名内間 明美
別名シンシア(Cynthia 英語名)・ポーリー(Paule フィリピン人義父の姓)
生誕 (1954-07-02)
1954年7月2日(69歳)
出身地 日本沖縄県宜野湾市
学歴上智大学卒業
ジャンル歌謡曲J-POP
職業元歌手、元アイドル
活動期間1971年 - 1978年
1991年 - 1997年
レーベルソニー・ミュージックエンタテインメント
配偶者篠山紀信
事務所バーニングプロダクションT&C ミュージック(現役時代)
共同作業者酒井政利
有馬三恵子
筒美京平
公式サイトArt of loving

南 沙織(みなみ さおり、1954年昭和29年〉7月2日 - )は、日本の元歌手、元アイドル。本名:篠山 明美(旧姓:内間)。沖縄県中頭郡嘉手納町生まれ、宜野湾市育ち[1]。夫は写真家・篠山紀信。3児の母。次男は篠山輝信
人物

沖縄県嘉手納町で生まれ、4歳の頃からは宜野湾市で育った[1]。幼少の頃は宜野湾市でも何度か引越しをしたが、南によると「どういうわけか、自宅はいつも普天間飛行場のゲートの近くだった」という[1]。母の勧めで真栄原のクライスト・ザ・キング・インターナショナル・スクールに通った[1]。義父はフィリピンが故郷で、第二次世界大戦後にアメリカ合衆国の軍属として沖縄に来ている[1]

デビュー時は母親の郷里、鹿児島県奄美大島)生まれとされたが[注 1]、実際は生まれも育ちも沖縄県[注 2](なお、出生から17歳までアメリカ施政権下)。また、フィリピン人とのハーフであるとされてきたが、正しくは両親とも日本人で母の再婚相手(義父)がフィリピン人である[2]。生育環境からいわゆるバイリンガルである。異父妹弟がいる[3]カトリック信徒で、英語名「シンシア(Cynthia 月の女神、蟹座の守護神の意)」を愛称としている。星座が「蟹座」であることから、デビュー曲「17才」のジャケットの写真にも「蟹座」のデザインのシャツを着用しているほか、発売時のキャンペーンでは蟹のマークのシールが配布されていた。デビューから35年を経て発売されたCD-BOX『Cynthia Premium』の外箱には、同様に蟹座のマスコットがプリントしてある。

1972年沖縄返還の前後に沖縄県民の間では非常に大きな盛り上がりがあったが、沖縄が日本に返還されることについて南は、「とても複雑な心境だった。素直に喜べなかった。」と述べている。その理由として、義父がアメリカ軍兵士を相手に飲食店を経営しており、返還を機に父の店はダメになるのではと懸念していたからであった。本人が「テレビよりもファンと直接触れ合えるコンサートが好き」と語っていたように[4]、芸能活動の多くは音楽活動に費やされ、テレビドラマや映画出演などの女優業はほとんど行わなかった。ただしデビュー当時の1971年、円谷プロダクション製作のパイロットフィルムミラーマン』に、主人公・鏡京太郎(柴俊夫、当時・柴本俊夫)の恋人・ユミ役で出演したことがあり、翌年にも柴が主演した『シルバー仮面』(宣弘社)の第6話にゲスト出演している。
著名人のファン

吉田拓郎は南のファンであることを再三にわたって公言しており、かまやつひろしと組んでリリースした「シンシア」は、南に捧げた楽曲である。また、泉谷しげるも同様で1973年に野音にて南とジョイントコンサートを行っている。

他にも羽仁進大岡昇平岩崎宏美泉麻人やくみつるさくらももこみぶ真也などがいる。
来歴
デビュー前

歌手デビュー以前、地元沖縄琉球放送視聴者参加型のど自慢テレビ番組『オキコワンワンチャンネル』『100万人の大合戦』などでアシスタントのアルバイトをしていた。一方、その頃東京では、CBS・ソニーがデビューさせる新たな人材を探していた。ある時、琉球放送のテレビ番組にヒデとロザンナがゲスト出演した際、そのマネージャーが持ち帰った写真に偶々南が載っており、更にそれが偶然ソニー関係者の目に留まったことから[5]、急遽、東京に呼び寄せられることとなった。
現役時代

1971年の春、本土復帰前の沖縄から母親と二人で上京[6]。CBS・ソニー社長との顔合わせを経て、デビューに向けたプロジェクトが開始された[7]

レコード・デビューまでわずか3ヶ月足らずというその過程について、作詞家有馬三恵子は、「あんなにスムーズに新人歌手をデビューさせられた例は、他にない気がする」と語っている[8]。そして「詩心を大いに刺激した」という南のために書かれた詞の中から、「17才」がデビュー曲として採用され(タイトルは酒井政利による)、6月1日に「ソニーのシンシア」のキャッチフレーズを持って歌手デビュー。約54万枚の大ヒットとなった。

楽曲作りに着手した時点ではまだ芸名は決まっておらず、CBS・ソニーの社内公募では「南陽子」が1位だったが、有馬三恵子の「彼女のイメージは陽子じゃなく、沙織じゃないかしら」の一言で「南沙織」に決まった。[9]

デビュー時の南のインパクトについて、写真家篠山紀信は「彼女の登場は、返還を目前とした沖縄のイメージ・アップのための国策歌手かと思ったくらい良かった」と述懐しており[7]音楽プロデューサーの酒井政利は「そのタイミングは、南沙織が持つ気運のひとつであったのではないか」と著書で書き記している[10]。また、「世代的共感を歌うアーティストの始まり[11]」「日本におけるアイドルの第1号[12]」「元祖アイドル[13][14]」と評価されることもある[注 3]

1971年暮れの第13回日本レコード大賞で新人賞を受賞し、同年のNHK第22回NHK紅白歌合戦』にも初出場。プロマイドも、1971年、1972年の年間売り上げ実績では第1位を獲得している。また、同時期にデビューした小柳ルミ子天地真理らと共に "新三人娘" と括られることもあり、当時のアイドルの代表格であった。

1972年から1974年頃までは、筒美京平が手がけた楽曲を中心にヒットを放ち、アルバムでは多くの洋楽ポップスもレコーディングした。そのファン層は広く、普段は洋楽しか聴かない層の獲得にも成功したと言われている[15]

1975年発売の「人恋しくて」では田山雅充が作曲を担当。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:77 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef