南日
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「南日」のその他の用法については「南日 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

南日

各種表記
チョソングル:??
漢字:南日、南一
発音:ナム・イル、ナミル
日本語読み:なん にち
英語表記:Nam Il
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南 日(ナム・イル、1913年6月5日[1] - 1976年3月7日)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍人政治家朝鮮人民軍大将ソ連派に属す。ロシア名はヤーコフ・ペトローヴィチ・ナム(Яков Петрович Нам)[2]

朝鮮人民軍総参謀長外務相(外務大臣)、副首相を歴任。
経歴停戦会談時の南日

1913年[1]咸鏡北道で生まれる。ソ連沿海州から中央アジアへの強制移住を経験した(高麗人参照)。トムスク大学卒業後[3]サマルカンド州国民教育部長を務める。ソ連軍に入隊し、独ソ戦ではスターリングラード攻防戦などに将校として参加したとされる。しかし兪成哲は「南日は体系的な軍事常識が無かった」と証言している[4]

第二次世界大戦後朝鮮半島北半部に帰国して教育行政にあたり、1946年北朝鮮臨時人民委員会教育局副局長に就任。1948年9月9日朝鮮民主主義人民共和国建国後は教育副相になる。1950年6月25日朝鮮戦争勃発後、同年9月、姜健将軍の戦死により後任の朝鮮人民軍総参謀長に任命。戦争末には、休戦委員会の朝中側首席委員として国連軍との交渉を担当。1953年7月27日休戦協定文書に「朝鮮人民軍・中国人民志願軍代表団首席代表、朝鮮人民軍大将」として署名している[5]

朝鮮戦争休戦後の1953年朴憲永に代わって外務相に就任。1954年8月30日には日本政府在日朝鮮人処遇に抗議するとともに「在日朝鮮人は共和国の在外公民」とする声明を発表(南日外相声明)。日本共産党の在日朝鮮人運動に対する指導性を暗に否定したことにより、在日朝鮮人運動は大きな転換を迎え、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)の解散と在日本朝鮮人総聯合会の結成(1955年5月)につながることになった。

1955年2月にはソ連の平和共存路線を念頭に、朝鮮民主主義人民共和国外相として日本の鳩山一郎政権に対し、貿易や文化交流を通じて東西陣営政治体制の違いを乗り越えた友好関係の確立を提唱し、以後中華人民共和国大連1958年長崎国旗事件以後は香港)を経由して日朝貿易が拡大している[6]

1956年4月の朝鮮労働党第3回党大会において党中央委員および党常務委員会委員に選出され、党内序列第9位となる[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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