南寧作戦
戦争:日中戦争
年月日:1939年(昭和14年)11月15日 - 12月1日
場所:広西省南部
結果:南寧の占領
交戦勢力
大日本帝国 中華民国
指導者・指揮官
安藤利吉
今村均白崇禧
夏威
戦力
約25,000人約30,000人
損害
戦死:250
戦傷:567戦死:10,041
捕虜:664
日中戦争
主要戦闘・事件の一覧
1937-1939年
北支(盧溝橋 - 北平 - 廊坊 - 広安門 - 平津 - 通州 - チャハル) - 上海 (大山事件 - 上海爆撃 - 四行倉庫) - 太原 - 南京 - 徐州 (台児荘 - 黄河決壊) - 武漢 (万家嶺 - 長沙大火) - 広東 - 南昌 - 襄東 - ?湘
南寧作戦(なんねいさくせん)とは、日中戦争中の1939年11月15日から12月1日までの間、「援?ルート」の遮断を目的として広西省の南寧を攻略した日本軍の作戦である。中国側呼称は桂南会戦[1]。 日中戦争が長期持久段階に入るにつれ、中国と欧米列国を結ぶ補給連絡路(援?ルート)の遮断が日本の対中戦略の重要な問題として浮上してきた。援?ルートの中でも、特に「仏印ルート[2]」は1938年(昭和13年)頃から輸送量が約4倍に増え、その重要性を増していた。日本は外交折衝でフランスに対して再三禁絶を申し入れていたが、仏印ルートを通じて対中貿易を行うアメリカ・イギリス2国の利害も絡んでいたため交渉は進展せず、成果を収めるには至らなかった[3]。 1939年(昭和14年)に入ると、南寧を攻略して援?ルートを遮断し、更には奥地爆撃の航空基地を設定しようと言う意見が海軍側から提唱された。一方で陸軍の関心は対ソ連軍備に向けられ、この時期ノモンハン事件の対応に追われておりこの提案を無視していた。しかしノモンハン事件の責任を負って統帥部首脳が交代すると、新作戦部長に就いた富永恭次少将は南寧作戦の実行に熱意を示し[4]、ノモンハンへ投入予定だった第5師団を満州から転用して実行することになった。作戦は南寧―竜州間の補給路遮断が目的とされた。竜州は仏印との国境に近く、従来までは国際紛争を懸念して見送られてきたが、欧州大戦勃発による情勢の変化が作戦実行を後押しする形となった。英・仏が対独戦に拘束され、極東を顧みる余裕が無くなった好機に南寧を占領することで、将来的には北部フランス領インドシナ(仏印)への足掛かりにしようとする狙いもひそんでいたのである[5]。
背景
参加兵力
日本軍
第21軍 - 軍司令官:安藤利吉中将 (軍主力は広東省で翁英作戦を展開)
第5師団 - 師団長:今村均中将
及川支隊 - 歩兵第9旅団長:及川源七少将
中村支隊 - 歩兵第21旅団長:中村正雄少将
台湾混成旅団 - 旅団長:塩田定七少将
協力部隊 - 第二遣支艦隊、第3連合航空隊
中国軍
桂林行営 - 主任:白崇禧
第16集団軍 - 総司令:夏威 (広西軍の6個師)
第31軍 - 軍長:韋雲淞 (第131師、第135師、第188師。)
第46軍 - 軍長:何宣 (第170師、第175師、新編第19師。)
第200師 (中央軍第5軍所属の機械化部隊)