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出典検索?: "南唐"
公用語漢語(中国語)
首都江寧。959年洪州に南都南昌府を置き、961年に遷る
皇帝(958年より国主と称する)
937年 - 943年先主 李?(烈祖)
943年 - 961年中主 李景(元宗)
961年 - 975年後主 李U
変遷
呉より禅譲937年
?を滅ぼす945年
楚を滅ぼす951年
後周に臣従し、皇帝号を去り国号を江南に改める958年
首都を南昌府(洪州)に遷す961年
宋によって滅亡975年
南唐(なんとう、937年 - 975年)は、五代十国時代に江南に割拠した国であり、十国の一つである。首都は江寧。国号は単に唐であるが、唐と名乗った他の政権と区別するために、特にこの国の名を南唐という。文化的・経済的に繁栄し、十国の中では最大の勢力を誇ったが、華北の後周や北宋に攻め立てられて滅亡した。 呉では、丞相を務めた徐温の死後、その養子である徐知誥が太尉・中書令となって政治の実権を握っていた。931年には、金陵に駐屯するようになり、子の徐景通(後の南唐の元宗李m)を呉の都である江都にとどめて政治を任せた。徐知誥は933年には斉王となり、さらに937年10月に呉の皇帝である睿帝楊溥から禅譲を受け、皇帝として即位し、国号を斉とした。 徐知誥は養子になる前は姓が李であり、これは栄華を誇った唐の歴代の皇帝の姓の李と同じであった。このため、938年に徐知誥は自らの姓を李に戻し、自分は唐の皇族の李恪 李?の死後、子の李mが後を継いだ。李mは父と違って、対外拡張政策を進めた。現在の福建省に割拠した?では後継者争いが続き、国政が混乱していた。李mはこれに乗じ、945年に?を滅ぼした。さらに福州を攻めたが、呉越の銭弘佐に敗れた。 現在の湖南省に割拠していた楚でも、後継者争いが続いていた。950年に当時の楚王馬希広の兄である馬希萼が南唐と結んで、馬希広を殺した。馬希萼は楚王となり、南唐の臣下と称した。しかし、翌951年に馬希萼が部下に追われると、南唐は軍勢を楚に差し向け、楚を併合した。ここに、南唐は現在の行政区分で言うと江蘇省・江西省・安徽省・湖北省・湖南省・福建省を領するようになり、南唐のおよそ40年の歴史の中でこの時版図は最大になった。
歴史
建国
対外発展
衰退 南唐→江南(後周に長江以北を奪われた957年以降)