南号作戦(なんごうさくせん)は、太平洋戦争末期に日本海軍の実施した資源輸送作戦のことである[1]。1945年(昭和20年)1月下旬から3月下旬まで、シンガポール方面から日本本土へ向けて、10隊以上の護送船団を航行させたが、撃沈された船舶や艦艇も多い[1]。 太平洋戦争中、日本は石油や鉄鉱石、天然ゴム、米など様々な資源を南シナ海を経由して南方の占領地から本土へ海上輸送していた。特にシンガポールと日本本土を結ぶ石油輸送航路は重要視され、ヒ船団と称する護送船団が運航されていた。これに対して連合軍はこのシーレーンを潜水艦などで攻撃する通商破壊を実施し、特に1944年(昭和19年)後半になると、中国大陸や再占領したフィリピンを拠点とする航空機により南シナ海航路を遮断しつつあった。 1945年(昭和20年)1月12日には、輸送船10隻を練習巡洋艦「香椎」を旗艦とする第101戦隊の6隻で護衛したヒ86船団が、アメリカ海軍第38任務部隊に捕捉され、空襲により護衛の海防艦3隻を残して全滅させられていた[2]。同時期に南下中のヒ87船団(輸送船10隻、護衛艦艇11隻)も、緊急避難した香港港内などで空襲を浴び(1月15日?16日)、特務艦神威などタンカーや輸送船の大部分を失った[2]。いずれも当時の日本としては大型で強力な護送船団であったが、大規模な空襲には無力だった。敵機動部隊が悠々と南シナ海まで侵入したことは、日本の南方シーレーンにとって決定的段階の到来であり、航路の終焉が迫っていることを示唆していた[3][4]。 1945年1月時点での日本の石油備蓄は、台湾や満州所在の分を合わせても100万キロリットル程度に過ぎなかった[5]。 そこで1945年1月、日本は石油など最重要資源輸送目的に限定して南方航路を維持することを決め、そのために「特攻精神」による「特攻輸送」を行うこととした[6]。1月20日、「南方ヨリノ帝国燃料資源ノ還送作戦ノ遂行」等を含む大綱が、大海令第37号をもって発せられた[7]。大本営陸軍部と海軍部の間で「燃料竝ニ重要物資緊急還送作戦實施ニ關スル陸海軍中央協定」が締結され[1]、海軍の担当部分に関連しては連合艦隊司令長官指揮の下で「南号作戦」が行われることとなった[7]。ただし、戦史叢書によれば、南号作戦が中央協定の対象となる海軍の行動全てを指すものかは明確でない[8]。この中央協定に基づき、同日、大本営海軍部は大海指 1月の機動部隊襲来による被害でタンカーが不足する中、損傷船の修理などが急がれ、南号作戦に投入された。護衛戦力としては、海上護衛総司令部の第一護衛艦隊主力などのほか、第五艦隊(2月上旬より第十方面艦隊に改編)[9]、第四航空戦隊や第一航空艦隊といった連合艦隊の残存戦力も好機を捉えて投入し、護衛や哨戒強化に充てるものとされた[7]。支那方面艦隊は第二遣支艦隊(護衛艦艇約4隻)、海南警備府部隊(護衛艦艇約2隻)、上海根拠地隊(護衛艦艇約7隻)を海上護衛総司令部司令長官の指揮下に入れた[1]。陸軍航空隊も上空援護に協力した。戦術面ではヒ86船団やヒ87船団の戦訓にかんがみ、従来の大船団主義を転換、空襲による被害を限定するために輸送船数隻からなる小規模な船団が原則とされ、可能な限りの護衛艦艇が付された[10]。例えばヒ88A船団は、タンカー「せりあ丸」(三菱汽船:10238総トン)1隻のみと護衛の駆逐艦・海防艦・駆潜艇のべ8隻から構成された。輸送船自体にも対空機銃や爆雷などの自衛兵装が多数搭載された。 また南号作戦の支援として2月22日から3月12日まで中国東部沿岸における潜水艦撃滅を目的とした掃討作戦である「AS1号作戦」、3月13日から17日まで中国沿岸から台湾までにおける潜水艦撃滅を目的とした掃討作戦である「AS2号作戦」が実施され、第百二戦隊(軽巡洋艦「鹿島」、海防艦「屋代」・「御蔵」・第2号・第33号・第34号)と第九三一海軍航空隊(九七式艦上攻撃機)が従事した。 3月までに、大内建二によれば11次に渡る船団としてタンカー30隻が送り出されたが、その多くは途中で撃沈された。
背景
作戦経過