南原城攻略
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南原城の戦い
戦争:慶長の役
年月日:
慶長2年8月12日から15日1597年9月23日から26日
場所:朝鮮国全羅道南原
結果:日本軍の勝利
交戦勢力

朝鮮日本豊臣政権
指導者・指揮官
楊元宇喜多秀家
戦力
明軍3,000[1]

朝鮮軍1,000-3,000[2]日本軍56,800
損害
5,000[3]不詳
文禄・慶長の役


釜山鎮

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南原城の戦い(なんげんじょうのたたかい)とは、慶長の役で日本軍が南原城を攻略した戦い。目次

1 背景

2 経過

3 影響

4 脚注

背景

文禄の役後、日本との間で続けられた和平交渉が決裂すると豊臣秀吉は再征を命じた。慶長2年(1597年)中の任務として、「全羅道を悉く成敗し、さらに忠清道にも出撃すべきこと」、「これを達成した後は守備担当の武将を定め、帰国予定の武将を中心として築城すること」が命じられていた[4]

慶長の役が始まり7月に日本水軍が漆川梁海戦で朝鮮水軍に壊滅的打撃を与えると、日本軍は右軍、左軍、水軍に分かれ水陸から全羅道を目指して進撃を開始する。
経過

進撃路上の慶尚道と全羅道の道境付近では南原城と黄石山城が行く手を扼していた。そこで、日本の右軍は黄石山城を、左軍と水軍合計56800は水陸を併進し南原城を目指した。

これに対し、明軍では総兵・楊元を南原城に派遣していた。楊元は到着すると、城の防備強化に取り組み、城壁を一丈ばかり増築し、城外の羊馬墻に数多くの銃眼を穿ち、城門に大砲三門ほどを据付け、濠を一・二丈掘って深くした[5]

日本軍が水陸から襲来するとの報が急を告げると、城中の者はびくびくとして騒ぎ立て、人民は逃散し、ただ総兵・楊元の率いる遼東の騎兵3000が城内にいるばかりであった[5]

南原城には明の総兵・楊元の他、中軍・李新芳らが、約3000人の明兵を擁して守りを固め、これに朝鮮軍の全羅兵使・李福男、南原府使・任鉉、助防将・金敬老、光陽県監・李春元、唐将接伴使・鄭期遠らが約1000-3000[6]人の朝鮮兵を率いて加わった。

8月12日、日本軍は南原に到着すると、ここを包囲下に置き、戦闘が開始される。

南原城包囲軍配置

南面 宇喜多秀家藤堂高虎太田一吉

西面 小西行長宗義智脇坂安治竹中重利

北面 加藤嘉明島津義弘

東面 蜂須賀家政毛利吉成生駒一正

戦闘は先ず射撃戦で始まり、日本軍は散兵を城に接近させ火縄銃を撃ちかける。


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