南北朝正閏論
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南北朝正閏論(なんぼくちょうせいじゅんろん)とは、日本南北朝時代において南朝北朝のどちらを正統とするかの論争。閏とは「本来あるもののほかにあるもの」「正統でないあまりもの」を意味する字である。
概要

近世以来、「果たして南北朝のいずれが正統なのか?」を巡って、南北朝正閏論が行われてきた。論者の主張は、大きく分けると以下の4つになる。
南朝正統論

北朝正統論

両統対立論

両統並立論

北朝方公家における南朝観

1392年明徳3年/元中9年)閏10月2日に南朝の後亀山天皇吉野から京都大覚寺に入り、3日後に三種の神器後小松天皇に引き渡された。北朝では、光厳天皇の皇統こそ正統なものであるという立場であり、南朝の後村上天皇長慶天皇・後亀山天皇の3代の天皇は、謀反人である「南方偽主」に過ぎなかった。(北朝から見れば)天皇でもない後亀山が行幸の体裁で入京したことにも反発があった。

さらに、後亀山の入京と神器引き渡しの前提となった明徳の和約は、足利義満を首長とする室町幕府と南朝方とのあいだでとりかわされたものであり、北朝はその内容を知らされていなかったか、少なくとも了承はしていなかった。このため、後亀山から後小松への譲位を意味する「譲国の儀」の実施や、後小松の子孫と後亀山の子孫による両統迭立など、取り決め内容が明らかになると、強い反発を示した。

後小松は後亀山との会見を拒絶し、神器の引き渡しも、治承・寿永の乱に際し、都落ちする平家の手で安徳天皇とともに西国に移された神器が、平家の滅亡・安徳の死により京に戻ったことを先例として、権大納言日野資教・蔵人頭日野資藤らを大覚寺に派遣して接収することで行われた(『南山御出次第』『御神楽雑記』)[注釈 1]

元号も北朝の「明徳」が依然として用いられ続け、2年後の明徳5年(1394年)2月23日に後亀山天皇に太上天皇の尊号を贈るときも、北朝は強い反発を示し、朝廷では異例の16日間にわたる議論が続いた。最終的には、足利義満の強い意向に押し切られてようやく実現にいたったが、あくまでも「不登極帝」に対するもの、つまり後高倉院のように、正式には天皇に即位していない者への尊号授与であることが強調された(『荒暦』)。

後小松天皇は、光厳天皇にはじまる北朝のなかでも、後小松の祖父である後光厳天皇にはじまる皇統に属していた。後光厳は正平一統の混乱のなかで擁立された天皇であり、その皇位継承の正統性は不明確であって、後光厳の兄である崇光天皇にはじまる皇統(のちの伏見宮家)とのあいだで対抗関係にあった。後光厳も、また後小松の父後円融天皇も、自分の跡取り息子を皇太子にすることもできない状態で、とても旧南朝とのあいだで両統迭立を行う余裕はなかった。また、近衛家洞院家など、多くの公家の家門が家督をめぐって北朝方と南朝方とに分裂しており、北朝方の公家たちにとって、南朝方の同族の復帰につながりかねない南朝の正統性を認めることには難しかった。なによりも、南北朝の分裂後、南朝は4回にわたって京を占領しているが、いずれも短期間に終わり、北朝は京と朝廷機構をほぼ完全に掌握していた。それが、北朝方の自負の裏付けとなった。

後小松の皇統に対する意識は、いくつかの編纂物からも看取することができる。現在も天皇家の系譜としてもっとも信頼されている『本朝皇胤紹運録』は、 応永33年(1426年)に後小松が洞院満季に命じて編纂させたものである。現存する写本のなかでも古い形態に属するものでは、次のとおり、後村上・長慶・後亀山が「天皇」ではないことが明示されている。

義良親王 陸奥太守、於南方稱君主、號後村上天皇云々……

寛成親王 法名覺理、於南方自立號長慶院

熙成王 法名金剛心、自吉野降後、蒙太上天皇尊號、號後亀山院

後小松は、息子(称光天皇)に皇位を譲ったが、称光は子どものいないまま危篤状態となり、父に先立って死去した。そのあと、崇光流皇統の貞成親王(後崇光院)の息子である彦仁王(後花園天皇)が後小松の猶子となって即位した。『本朝皇胤紹運録』では、後花園は後小松の息子として記載され、貞成との親子関係は抹消されている。皇子ではない者が天皇に即位したときは、その父親には天皇あるいは太上天皇の称号を贈るのが通例であった(尊称天皇・追尊天皇)が、後小松は、永享5年(1433年)の死去に臨み、貞成を太上天皇としないように遺言したといわれる。自らの家系の正統性を維持しようとする執念はそれほど強かったのである。

しかし、文安4年(1447年)にいたって、貞成に太上天皇の尊号が贈られた。廷臣万里小路時房は、日記『建内記』文安4年11月27日条に「凡非帝位人尊號、後高倉院(但後堀河院嚴父之謂也)、後龜山院(三種神器被渡當朝之謂也)両度也、今度之儀、淺自後高倉院、深自後龜山院者歟」と書いている。天皇になっていない人に尊号を贈った先例は、後高倉院と後亀山院の2つあり、3回目となる今回は、後高倉の尊号ほどの必然性はないが、後亀山の尊号よりはまだ無理がないという認識である。時房は、後小松の遺志を尊重して、後崇光への尊号に最後まで反対していた人物であるが、その時房でさえ、後亀山の尊号よりは後崇光の尊号の方がまだましだと考えていたのである。

後花園の息子である後土御門天皇の時代になって、壬生晴富北畠親房の『神皇正統記』に反駁するかたちで『続神皇正統記』を著した。「後村上天皇、諱は義良、第九十六代第五十世云々、これは南方偽主の御事にて、當朝日嗣には加奉らず(中略)後嵯峨院御正嫡の御流として誠に神皇正統の正理に歸し、此記(=『神皇正統記』)の名目自然の道にかなひ侍る御事よとふしきにも奇特にも侍るかな」と述べて「光厳院」を第96代、「後醍醐院」の重祚を第97代、「光明院」を98代として、「後花園院」まで続けている。この書は『神皇正統記』の著者である北畠親房の意図を歪めるものとして古くから非難された書物であるが、一方、後嵯峨天皇以前は兄を嫡流とする「正統」理念で描きながら、それ以後は弟の亀山天皇の系統を嫡流とするために「正理」理念を持ちだして弟を嫡流とする親房に対する鋭い批判も含まれている。また、北朝における歴史認識の典型的な姿をよくあらわしている。

『本朝皇胤紹運録』は、勅撰の皇統譜として前近代を通じて重んじられた。後小松が表現させた北朝正統論に異議がさしはさまれることはなかった。安永8年(1779年)に即位した光格天皇は、天皇の権威を高めるために努力した人物であるが、彼が「神武百二十世」と署名したものが残っている。北朝を正統として数えた代数であり、南朝は無視されている。朝廷も、歴代の天皇も、歴史的には北朝の延長でしかない以上、北朝の正統性を疑う発想が出てくるはずがないと言える。一方で、浩瀚な歴史書『続史愚抄』を著した柳原紀光は、やはり北朝を正統としているが、正平一統のあいだに限って、後村上天皇を正統の天皇と認める態度をとっている。
近世以前の南北朝正閏論

南朝正統論の嚆矢は、南北朝時代に南朝方の重鎮であった北畠親房が著した『神皇正統記』であった。親房は三種の神器の所在と皇統における「正統」概念を以て南朝正統論を唱えた。親房は南朝の正統性を示すために「正統」概念の中には儒教や神道の教説を取り入れる形で有徳の者が皇位継承者に選ばれるという正理正義の理念を含めた。だが、一方で当時の家督継承の基本的な考え方で儒教や神道の考え方にも適っていた正嫡正流の概念も捨て去ることは出来ず、結果的には両説を組み合わせたものとなってしまった。更に神器の問題にしても上記の安徳天皇が神器をもって西国に下った時の後鳥羽天皇即位の事情など理念と史実の乖離を完全に説明することは出来なかった。その後、北朝によって皇統が統一されて楠木正成ら南朝方の人々が「朝敵」と認定され、更に実際問題として南北朝合一後も80年近くにわたって「後南朝」と呼ばれる北朝及び室町幕府に対する南朝復興運動が続いていたことから、親房以後に南朝正統を唱える者はいない状態が続いた。

この風潮が変化したのは、『太平記』が流布されて公家や武士などに愛読され、南朝方に対する同情的な見方が出現するようになってからである。 永禄2年(1559年)、楠木正成の子孫を名乗る楠木正虎の申請によって、楠木正成は朝敵の赦免を受ける。


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