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上から時計回りに: ゲティスバーグの戦い, 北軍のJohn C. Tidballと野砲、南軍の捕虜、装甲艦「アトランタ」、廃墟と化したリッチモンド、第二次フランクリンの戦い
時1861年4月12日-1865年5月9日(布告による)[1]
4年3週間と6日
1865年6月22日に最後の砲弾が発射された。
場所アメリカ南部、アメリカ北東部、アメリカ西部、大西洋
発端サムター要塞の戦い
結果
アメリカ合衆国(北部)の勝利
奴隷制の廃止
アメリカ合衆国の領土保全の成功
アメリカ連合国(南部連合)の滅亡
リコンストラクションの開始
衝突した勢力
アメリカ合衆国
アメリカ連合国
指揮官
エイブラハム・リンカーン
ユリシーズ・グラント
ウィリアム・シャーマン
ジョージ・マクレラン
デヴィッド・ファラガットほかジェファーソン・デイヴィス
ロバート・E・リー
ジョセフ・ジョンストン
トーマス・ジョナサン・ジャクソン
ラファエル・セムズほか
戦力
2,200,000人:[2]
アメリカ合衆国陸軍
アメリカ合衆国海兵隊
アメリカ合衆国海軍
698,000人(ピーク時)[3][4]
750,000人 - 1,000,000人[5][2]
アメリカ連合国陸軍
アメリカ連合国海兵隊
アメリカ連合国海軍
360,000人(ピーク時)[3][6]
被害者数
110,000人以上 戦死・戦傷死
230,000人以上 事故死・病死[7][8]25,000人から30,000人が南軍の捕虜収容所で死去[7][3]
365,000人以上 総死者[9]282,000人以上 負傷者[8]
94,000人以上 戦死・戦傷死[7]26,000人から31,000人が北軍の捕虜収容所で死去[8]
290,000人以上 総死者137,000人以上 負傷者
50,000人の市民が死亡[10]
総計: 705,000人から900,000人以上が死亡[11]
青が北部(アメリカ合衆国)自由諸州。水色が合衆国に留まった奴隷諸州。赤が南部(アメリカ連合国)奴隷諸州。白は準州。[12]アメリカ連合国(CSA)加盟州の変遷(1860年12月 - 1870年7月)
南北戦争(なんぼくせんそう、英語: American Civil War またはThe Civil War)は、1861年4月12日から1865年4月9日にかけて[13]、北部のアメリカ合衆国と合衆国から分離した南部のアメリカ連合国の間で行われた内戦である。奴隷制存続を主張するミシシッピ州やフロリダ州など南部11州が合衆国を脱退してアメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまったその他の北部23州との間で戦争となった。この戦争では史上初めて近代的な機械技術が主戦力として投入された。
英語における「civil war」は単に「内戦」を意味する語だが、アメリカ合衆国では独立後に内戦があったのはこの時だけなので(ユタ戦争などの内乱と呼ぶべき物はいくつかある)、国内では通常これに定冠詞をつけ大文字にして「the Civil War」と表記する。アメリカ以外の国では自国の内戦と区別するため、国名を冠して「American Civil War」と表記する(南北戦争のネーミングを参照)。
背景詳細は「南北戦争の原因」を参照
当時、南部と北部との経済・社会・政治的な相違が拡大していた。南部では農業中心のプランテーション経済が盛んで特に綿花をヨーロッパに輸出していた。プランテーション経済は黒人奴隷の労働により支えられており、農園の所有者が実質的に南部を支配していた。南部の綿花栽培の急速な発展は、英国綿工業の発展に伴って増大した綿花需要に負うもので、英国を中心とした自由貿易圏に属することが南部の利益につながっていた。
一方、北部では米英戦争(1812年 - 1814年)による英国工業製品の途絶で急速な工業化が進展しており、新たな流動的労働力を必要とし、奴隷制とは相容れなかった。また、欧州製の工業製品に対抗するため保護貿易が求められていた。その結果、奴隷制と貿易に対する認識を異にしていた北部の自由州(奴隷制を認めないという「自由」、奴隷州に対する概念的呼び方)と南部の奴隷州の対立が一層激化した。