南北戦争の信号司令部
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南北戦争における信号司令部(なんぼくせんそうにおけるしんごうしれいぶ、英:Signal Corps in the American Civil War)は、2つの組織があった。1つはアメリカ陸軍北軍)信号司令部であり、南北戦争の開戦直前にアルバート・マイアー少佐を初代の信号士官に指名して始まったものだった。もう1つはアメリカ連合国陸軍(南軍)信号司令部であり、北軍のものに比べてかなり小さな組織と人員ではあるが、似たような組織と技術を使ったものだった。どちらの組織も有線電信や視覚信号(ウィグワグ信号)など、交戦中の軍隊に戦術的および戦略的通信方法を提供した。どちらも戦場の偵察、情報収集および高所の観測所からの砲兵指揮などの任務があったが、南軍の場合は特に諜報活動も行った。

北軍信号司令部は戦場では有効であったものの、ワシントンD.C.における政争の影響を受け、特に文官が運用するアメリカ軍電報部との競合関係があった。マイアーは信号司令部内の有線電信の全てを統制しようとしたために、陸軍長官エドウィン・スタントンから先任信号士官の任務を解任された。マイアーは戦争が終わるまで先任信号士官の任務に戻ることは無かった。
北軍の信号司令部
初代先任信号士官

アメリカ陸軍信号司令部の父はアルバート・マイアー少佐だった。マイアーは軍医であり、手話に興味を持ったことから、軽量な材料を使って遠隔地に簡単に信号を送ることに興味を持った。一つの信号旗(夜間は灯油松明)を使って信号を送る方法を発明し、「ウィグ・ワグ」信号、あるいは「遠隔信号術」と呼ばれるようになった。2つの旗を用いる手旗信号とは異なり、「ウィグ・ワグ」信号は1本の旗を用い、2進法を用いてアルファベットの文字や数字を表現した。マイアーは1856年テキサス州ダンカン砦で勤務しているときに、陸軍長官ジェファーソン・デイヴィスに宛てて手紙を書き、陸軍省にその信号伝達法を提案した。陸軍技師長のジョセフ・G・トッテン大佐はマイアーの提案を支持したが、具体的な技術の詳細が抜けていたので、デイヴィスが却下した。1857年ジョン・ブキャナン・フロイドがデイヴィスに代わって陸軍長官に就任し、トッテンが再度マイアーの提案を紹介すると、1859年3月にワシントンD.Cで調査委員会が結成された。ロバート・E・リー中佐が委員長を務める委員会はこの提案に強い興味を示さず、短距離の2次的通信手段としてのみ適していると判断したが、さらなる実験も推奨していた[1]

マイアーは1859年4月にバージニア州モンロー砦で実験を始め、その後ニューヨーク港ウェストポイントおよびワシントンD.Cで実験を重ねた。このときマイアーの助手を務めた者の中にエドワード・ポーター・アレクサンダー少尉がおり、後に南軍の信号兵、工兵および砲兵士官になった。この実験では15マイル (24 km) の距離まで通信することができ、マイアーは実験が「予想以上」の結果だったと陸軍省に報告した。マイアーはその通信方法を陸軍が採用し、自身もそれを任務とする職に就くべきと提案した[2]

1860年3月29日アメリカ合衆国下院は1861会計年度での陸軍予算案を承認し、それには次の修正を含んでいた。野戦信号用の機器と装備の製造または購入に対して、2,000ドル。陸軍のスタッフとして信号士官1名を加え、騎兵隊少佐に相当する階級と給与、手当を与え、陸軍長官の指示で信号通信に関わる全任務を行い、それに関わる全ての書籍、論文および機器を請求できるものとする。[3]

アメリカ合衆国上院は、ミシシッピ州選出の上院議員ジェファーソン・デイヴィスが反対したものの、最終的に予算案を認め、ジェームズ・ブキャナン大統領が1860年6月21日に署名して法は成立した。この日はアメリカ陸軍信号司令部の生まれた日として現在でも祝われている。マイアーを少佐の階級で初代信号士官に指名する案は6月27日に上院で承認された[4]。しかし、この予算案ではマイアーの下で働く人員については規定しておらず、正式な組織としての信号司令部が承認されるのは1863年3月になってのことだった[5]

開戦の直前、マイアーはニューメキシコ方面軍勤務となり、ナバホインディアンに対する作戦で実戦における信号通信を試験することになった。この任務の時にウィリアム・J・L・ニコデマス中尉が補佐を務め、後にマイアーを継いで先任信号士官になった。野戦実験は成功し、エドワード・キャンビー少佐の称賛も得た。キャンビーは専門的信号司令部の編成を強く提唱する者になった。マイアーはこの時、信号任務に適したスタッフを揃える最善の方法は陸軍の統制の中で士官を訓練することだと考えた[6]
戦時組織

南北戦争が勃発したとき、マイアーはワシントンD.Cに戻り、信号任務にあたる人員がいないことを訴えた。その唯一の選択肢は他の任務にある士官から選抜して説得に当たることだったが、そのことはマイアー自身もあるいは昇進の機会が無くなることを恐れる他の士官達にも満足のいくものとは考えられなかった。マイアーは陸軍長官サイモン・キャメロンに法案を提出し、信号司令部は彼自身と、7名の信号士官、40名の准士官、および通信線の構築と補修を行う40名の信号技術兵で構成されるべきと提案した。マイアーは陸軍が最終的に50万名規模になると想定し、各師団が専門の無線および電磁気電信の支援部隊を持つことになることを目指した。アメリカ合衆国議会はこの法案を検討することなく休会になった。その年の秋、マイアーは陸軍信号士官長の任務に加えて新たに結成されたポトマック軍の先任信号士官も務めており、モンロー砦やワシントンD.Cのジョージタウンにあるレッドヒルで選抜された将兵の訓練施設を起ち上げた。ワシントンD.Cの訓練施設は1862年の半島方面作戦やその後の期間も活動を続け、この期間にマイアーは議会や新しい陸軍長官エドウィン・スタントンに働きかけを続けて、恒久的司令部を作ろうとした[7]

マイアーの努力が実って、エイブラハム・リンカーン大統領は1863年3月3日に諸々の民生用予算法案に署名し、この中で「現在の反乱」の間、信号司令部を組織化することを認めていた。これには大佐の階級で先任信号士官、1人の中佐、2人の少佐、各軍団あるいは方面軍につき1人の大尉、各軍団あるいは方面軍につき大統領が必要と考える8人を超えない中尉を置くことが含まれていた。各士官には1人の軍曹と6人の兵卒が割り当てられた。4月29日、マイアーはスタントン長官から先任信号士官の地位と大佐の階級に指名されたが、このとき上院が休会していたために直ぐには承認されなかった[8]

マイアーはその指揮が有線電信も統制するものと解釈していたが、競合する組織が現れた。アメリカ軍電報部は民間の電信士を雇用し、兵站部で軍人の任命を受けた者が監督し、全体は元ウェスタンユニオン電信会社の役員だったアンソン・ステイジャーが管理した。1862年2月リンカーンはステイジャーの組織が使っていた全国の商業電信を統制することにした。元はアトランティック・アンド・オハイオ電信会社の役員で弁護士でもあったスタントン長官は、電信の技術と戦略的重要さを理解し、電信事務所を陸軍省の自分の事務室の直ぐ隣に置かせた。スタントンの伝記作者の1人は電信士のことをスタントンの「小さな軍隊...彼自身の信頼できるスタッフの一部」と表現した。マイアーはこの組織を上回るための動きを始め、信号司令部で野戦用電信輜重隊を形成するための装備を購い、移動中の軍隊を支援する電信士に機動性を備えることを提案した。マイアーは伝統的なモールス電信機を使って電信士を訓練することに憂慮していたので、ニューヨーク市のジョージ・W・ベアズリーが発明したベアズリー・テレグラフと呼ばれる電信装置を輜重車に備えさせた。この装置が技術的に限界があることが分かると、1862年秋には「アーミー・アンド・ネイビー・オフィシャル・ガゼット」誌に訓練されたモールス電信士の募集広告を出した。陸軍省は、マイアーの行動が「規則によらず、不適当」とマイアーに告知し、1863年11月10日付けで先任信号士官を解任した。ベアズリー・テレグラフの装置は全てアメリカ軍電信司令部に渡され(信頼性に欠けたために使われることは無かった)、マイアーはテネシー州メンフィスに左遷された。先任信号士官の後任はかつての弟子だったウィリアム・J・L・ニコデマス少佐となった。マイアーは西部に左遷されている間の1864年に『信号マニュアル:野戦における信号士官の使用のために』を出版し、これがその後長い間信号理論の基本になった[9]

ニコデマスが継承した時、司令部は約200名の士官と1,000名の兵卒からなる組織に成長していた。1864年の信号司令部年報で敵の信号を読めることを暴露したときに、ニコデマスはスタントン長官と衝突した。スタントンはこれが機密漏洩であると正当に考え、1864年12月にニコデマスを陸軍から解雇した。南北戦争中の最後の信号士官長は、元ポトマック軍信号士官長だったベンジャミン・F・フィッシャー大佐だった。フィッシャーはゲティスバーグ方面作戦の間にバージニア州アルディー近くで捕虜になり、脱走して任務に戻るまでに8ヶ月間リビー監獄で囚われていた[10]

信号司令部が戦時任務終了後、1865年8月に解隊されるまでに、146名の士官が任命されるか任官を提案された。実際は297名の信号士官が任命されたが、非常に短期間の者もいた。戦争中に携わった兵士の総数は約2,500名になった[11]


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