「南北朝時代」とは異なります。
南北国時代
新羅・渤海併存時代の地図(830年頃)
各種表記
ハングル:??? ??
漢字:南北國 時代
発音:ナムブッククシデ
ローマ字:Nambukguk-sidae
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渤海及び後期新羅時期
各種表記
ハングル:?? ? ???? ??
漢字:渤海 ? 後期新羅 時期
発音:パレ(パルヘ) ミッ フギシルラ シギ
ローマ字:Parhae mich Hugisilla-sigi
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南北国時代(なんぼくこくじだい)は、「統一新羅(南)が渤海(北)と並立していた」と見なす歴史認識に基づいて、主に韓国で1970年代から用いられ始めた朝鮮史の時代区分である。北朝鮮も1960年代から同様の歴史認識をしているが、「南北国時代」なる用語は使わず、渤海及び後期新羅時期(ぼっかいおよびこうきしんらじき)と表記している[1]。
この用語は渤海を朝鮮民族の民族史に組み込む意図(朝鮮の歴史観)で用いられており、渤海の遺領を継承する中国やロシア、歴史的に渤海研究を主導してきた日本では受け入れられていない。特に中国は、中国社会科学院を中心に「古朝鮮・高句麗・扶余・渤海は歴史が一脈相通じる韓民族の歴史ではなく、古代中国の地方民族政権の歴史で、中国の歴史である」と主張し、かつ「渤海建国の主導勢力は高句麗人ではなく靺鞨族で、渤海の建国者大祚栄は渤海初期に靺鞨を正式国号に採択した」と見ているため[2]、渤海を自国の古代国家と主張する韓国と激しく対立している。
なお、渤海を朝鮮史に組み込まない中国や日本等では、三国統一後の時代を統一新羅時代(とういつしらぎじだい、中:?一新??代
)と称している。満洲南部から朝鮮半島北部にかけては紀元前から高句麗が勢力を維持していたが、668年に唐と新羅の連合軍に滅ぼされた。後に唐は朝鮮半島から撤退し、新羅は高句麗故地の南部を占領した。これにより朝鮮半島が統一されたとして、以降の新羅は統一新羅と呼ばれる。一方、高句麗遺民の一部は、唐から渤海郡王に冊封され、更に渤海国王に薦められた粟末靺鞨の大祚栄の下に合流した。これにより国名は「渤海」と呼ばれる。渤海は満洲東部、ロシア沿海州から朝鮮半島北部にかけてを領土とした。渤海と新羅はほぼ全時代にわたって激しく対立した。渤海は926年に契丹に滅ぼされ、故地には東丹国がおかれたが後に南遷した。同じ頃、918年に朝鮮半島中部に高麗が興り、935年に新羅を征服した。渤海故地では混乱が続き、のちに女真族が勃興する。
韓国の研究者のなかには、韓国の歴史教科書『国史』では、「南北国時代」という用語を使用している一方で、「統一新羅」という用語も同時に使用しており、矛盾しているため、今後は使用を避けるべきではなかろうかという指摘がある[3]。
酒寄雅志は、「李氏(李佑成、朝鮮語: ???、成均館大学)は、新羅末期の文人である崔致遠が『謝不許北国居上表』(『東文選』巻三三)と、渤海を指して『北国』と称したことをおもな根拠に、新羅・渤海の関係を『南北国』対立時代と想定している。しかし、日本僧空海が『遍照発揮性霊集』巻五で、『渤海日本分南北』と記していることや、『本朝文粋』巻九の大江朝綱の詩序の題に、『夏夜於鴻臚館餞北客』とみえることなどから、渤海と日本も南北といわれていたことが判明する。とすればこの『南北』は相対的な位置関係を示しているにすぎないのであって、崔致遠のいう『北国』もまたたんに新羅からみた北方に渤海が位置するだけで、当時、『南北国』対立というような統一的な国家観が存在していたとは考えられない」と評している[4]。 「南北国時代」論の歴史は非常に新しい。この議論の引き金を引いたのは、北朝鮮の朴時亨の論文「渤海史研究のために」(1962年)である。それまで北朝鮮の公的史観において、レーニンの民族論をベースにして、新羅の三国統一が朝鮮準民族(ナロードノスチ)形成の契機とされていた。朴時亭以後は、三国鼎立、南北両立、そして高麗による統合という新たな歴史観が北朝鮮の公的見解となった。これにあわせて「統一新羅」は「後期新羅」(????)と呼ばれるようになった。ただし、北朝鮮では「南北国」なる用語は使わず、「渤海及び後期新羅」と表記している[5]。北朝鮮と「朝鮮の国家」としての正統性を争う韓国では、遅れて李佑成が「南北国時代と崔致遠」(1975年)を発表し、新羅と渤海の並立時代を「南北国時代」と規定した。この規定は民族主義的な韓国史学において受け入れられ、国定教科書に記述されるに至っている。ただし、北朝鮮と異なり「統一新羅」の呼称は引き続き用いられている。 朴時亨の論文「渤海史研究のために(朝鮮語: ??? ??? ???)」では、新羅時代にすでに「南北朝」という概念があったと主張しており、「南北朝」は「まさしく統一を実現しようとする同族の全体の一部である」している[6]。韓東育は、「朴教授の学術理念を理解する上で役立つかもしれない」として、朴時亨の学術理念をこう見る[6]。1962年末か1963年春頃、朝鮮最高人民会議常任委員会の崔庸健委員長は、周恩来総理にたびたび中国東北地方の考古調査や発掘を進行させるよう要求した。崔の主張の大意は、以下のようである。国際上の帝国主義修正主義や反動派は我国を封鎖して孤立させ、我々を小民族、小国家、自己の歴史や文化を持たず、国際的な地位を有しないと中傷した。我々は中国東北地方の考古学を進行させ、自己の歴史を明確にし、古朝鮮の発祥地を探すことを要求する。周総理は一面では同意を示し、他面では婉曲的に古朝鮮が我国の東北地方に起源を持つという観点に対して反対した。周総理が言うには、「我々は、古朝鮮の起源が我国の東北地方とは決まっておらず、我国の福建省を起源とする可能性がある。朝鮮の同志は、水稲を植え、米を食し、またみんな下駄を履いており、飲食や生活習慣が福建と同じである。また、朝鮮語の一、二、三、四、五、六、七、八、九、十の発音と我国福建の一、二、三、四、五、六、七、八、九、十の発音は同じであり、福建の古代住民が朝鮮半島に渡来した可能性がある」というものであった。 北朝鮮、韓国において渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠は、つまるところ民族問題に収斂され、したがって北朝鮮や韓国における渤海史研究は、渤海と新羅との同族関係の証明や、高句麗-渤海の継承関係など、民族問題に集中する[7]。 李氏朝鮮中期に、朴趾源は、漢王朝の領土が鴨緑江の南に広がっていたという事実を否定し、満州の渤海を朝鮮の歴史から除いた金富軾を批判し、渤海は高句麗の「子孫」だったと主張した[8]。李圭景
史学史
渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠
建国者および支配集団の出自についてである。渤海の建国者・大祚栄や、支配集団が高句麗人であれば、渤海は、高句麗の継承者国であり、高句麗そのものであるというのである。建国者や支配集団がその王朝の性格を決定づけるもっとも重要な論点とされている[7]。
渤海国内の民族構成とそこにおける支配民族の役割についてである。渤海において一貫して王朝の主体的な役割を担ったのは高句麗系であり、被支配民族である靺鞨諸族に対する支配のあり方も高句麗時代以来、変わることはなかったとみている。住民構成における靺鞨族の割合を少なく見積もったり、あるいは靺鞨族の高句麗化というような民族融合の観点を強調する傾向もある[7]。
渤海王室および支配者集団の高句麗継承意識である。日本にもたらされた渤海国書のなかに「高麗(高句麗)国王」と自称している点を重視し、渤海人自身が、明確に高句麗継承意識を堅持していたとみなしている[7]。
新羅との相互間における同族意識についてである。新羅は渤海を「北国」または「北朝」と呼んでいたのであるから、渤海でも同様に新羅を「南国」あるいは「南朝」と称していたと推定し、相互に南北国、南北朝という意識をもっていた(推論)ことは、同族意識が共有されていたことのあかしと断定している[7]。
渤海遺民の帰趨と帰属意識についてである。渤海滅亡後に、十万余りの渤海遺民が高麗のもとに帰服した事実を重視し、ここに新羅の領域を継承した高麗を渤海人が同族と意識していたからこそ、このような行動がありえたという[7]。
渤海における高句麗文化の影響についてである。渤海の墳墓、住居址、都城趾および出土遺物、仏像など、遺跡・遺物はすべて高句麗との継承関係を明白に伝えているとみなしている[7]。
朝鮮における南北国時代論
「南北国時代」論者は、南北国時代という用語の初出は新羅後期の崔致遠による『崔文昌侯全集』と主張する。崔致遠の唐への上表文では、渤海を指して「北国」と記している。しかし、渤海が新羅を「南国」と呼んだというのは史料の裏付けのない憶測に過ぎない。