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南北和議(なんぼくわぎ)とは、革命等により、一国内で政権が分裂している状態において、南の政府と北の政府が和議を行うこと、またその結果、和議が成立した状態をいう。いろいろなケースで使いうる言葉であるが、ここでは、中国の辛亥革命後の南北和議について述べる。 南北和議(なんぼくわぎ)とは、辛亥革命後、孫文を臨時大総統とする南京の中華民国臨時政府と、北京の清朝との間で行われた、調整・政権統一のための交渉およびその結果としての和議のこと。「南北議和」「南北講和」「南北妥協」「南北停戦」「孫袁提携」などと呼ばれることもある。南北和議は、南側による北伐(広西北伐軍、広東北伐軍、上海北伐軍、福建北伐軍など)と平行して行われたこともあり、その始点と終点は、必ずしも明確ではない。 清朝側の代表者は主として袁世凱とその部下の唐紹儀であったが、中華民国側の代表は、伍廷芳、汪兆銘、黄興、宋教仁らと、入り乱れ、袁世凱に対してある程度の妥協せねば立ち行かないという1点においては共通の認識があったが、必ずしも足並みが揃わず、また、財政的にも革命政権側に限界が生じていた。そのため、最終的には、革命側の中では、袁世凱の立場とも近接性のある、張謇らのいわゆる立憲派が主導権を握り、革命側にとっては、かなり妥協的な内容の和議となった。和議の主たる内容は、以下のとおりである。 和議の結果、「南北統一がなされた」、という言い方をすることもある。 しかも、袁世凱はこれらのうち、第3点、第4点、第6点については、きちんと遵守することはなかった。
辛亥革命における「南北和議」
宣統帝が退位し、清朝を終焉させる
臨時大総統の地位を孫文から袁世凱へ移譲する
政府は南京におき(首都を南京にし)、変更できない
新総統は南京で就任する(それが、孫文辞任の条件)
(臨時)約法を制定する
新総統は約法(およびそれに基づく法律)に拘束される(約法遵守を誓約する)
国会を開設する
関連年表
1911年10月10日 - 武昌蜂起(武昌起義・新軍蜂起)
10月11日 - 革命軍、武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)を占領→湖北軍政府成立(黎元洪が、都督に正式に就任したのは10月16日)
10月12日 - 孫文は、アメリカ・コロラド州デンバーにて、武昌蜂起を知る(新聞にて)
10月末 - すでに和平準備会の交渉が進行していたとも
10月末?11月初め? - 清朝、憲法信条19か条発布
11月1日?7日?10日? - 袁世凱を総理大臣に任命
11月4日 - 上海独立
11月7日 - 清朝の刺客により、呉禄貞
11月15日 - 各省都督府代表聯合会(連合会)(上海)→11月30日には一部を残して武昌へ移転
11月15日 - 汪兆銘は、楊度とともに、国事共済会を結成し、南北和議を目指して唐紹儀に接触(←汪は、11月6日に、牢獄から釈放となって、北京にとどまっていた)
11月16日 - 袁世凱内閣成立
11月27日 - 漢口に続いて、馮国璋、漢陽を革命側から取り戻す
11月30日 - 漢口にて停戦(休戦)和議成立←11月29日 - 漢口英総領事の斡旋
12月初 - 汪、李石曽と京津同志会(天津)を結成し、和議に向けて動く
12月2日 - 革命軍、南京を占領→首都を南京とする
12月3日 - 中華民国臨時政府組織大綱公布(武昌)
12月3日 - 武昌の代表会は、革命派につくことを条件に、袁世凱を臨時大総統に推挙することを決定
12月4日 - 上海に残っていた代表者たちは、大元帥に黄興、副元帥に黎元洪を選出(上海)→2人とも辞退
12月7日 - 清朝は、袁世凱に南北交渉の全権を委任
12月中旬 - 臨時政府、南京へ移転
12月17日 - 唐紹儀、媾和使として上海着
12月18日 - 和平代表団(総代表(団長)は唐紹儀と伍廷芳)の第1回会合(上海)
清朝側団員 - 楊士g・厳修
清朝側顧問 - 楊度・魏宸組・汪精衛
革命側団員 - 汪精衛、李燮和ら7名
12月20日 - 段祺瑞と黄興の非公式和平交渉(南京)、五項目協定締結
12月20日 - 和平代表団の第2回会合(上海)
12月25日 - 孫文、上海に到着(21日には香港入り←15日にはシンガポール着←マルセイユ(11月24日発)←パリ着(11月21日)←ロンドン←ニューヨーク←10月5日シカゴ発)
12月28日 - 隆裕皇太后の勅令(国民会議召集を承認)
12月29日 - 各省代表会(議)(十七省代表)による大総統選挙、孫文選出(南京)
1912年1月1日 - 中華民国成立(南京。孫文が臨時大総統に就任)。南京臨時政府とも呼ぶことがある。