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みなみ しんぼう
南 伸坊
生誕 (1947-06-30) 1947年6月30日(76歳)
日本 東京都世田谷区
出身校東京都立工芸高等学校
職業イラストレーター
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南 伸坊(みなみ しんぼう、本名: 南 伸宏、1947年6月30日 - )は、日本の編集者、イラストレーター、エッセイスト、漫画家。本の装幀も多数手掛ける[1]。 ペンネームは、宮武外骨の『滑稽新聞』に登場する絵師、「墨池亭黒坊」に因んで、本名の伸宏をもじったもの[1]。エッセイに自らイラストをつける手法により、「イラストライター」と自称する[1]。あたたかみのある描線の似顔絵や、シンプルながら洗練された装幀で知られる。第29回講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。 『ハリガミ考現学』での貼紙の研究により、赤瀬川原平が提唱した路上観察学会にも参加。丸刈りでおむすび型の頭をトレードマークにしており、これを強調した自画像イラストでも知られる。また、日清チキンラーメンのCMなどにも出演した。 有名人たちに扮装して顔マネをした「本人術」も知られている[2]。『みなみしんぼうのそっくりアルバム』、『歴史上の本人』、『本人の人々』などがあり、これらの作品では妻・南文子が衣装、小道具、写真等を担当している。文子も伸坊と同じく、美学校の赤瀬川教室の出身者である。 伸坊の漫画作品には中国の奇異小説を漫画化したものが多く、また、中国歴史物小説のカバー挿画も多く担当している。さらに、各分野の専門家との対談形式によって、専門的な事項を素人にもわかりやすく説明する著作があるほか、ゲームソフト『MOTHER』(任天堂)のキャラクターデザインも手がけた。 高校卒業後、東京芸術大学デザイン科の試験をうけるが不合格となり[4]、美学校の木村恒久工房に入学した[5]。さらに、「絵・文字工房」で赤瀬川原平に学び[1]、1970年(昭和45年)に卒業した。同年、赤瀬川、松田哲夫とともに「櫻画報社」をつくり、各雑誌を「雑誌ジャック」した。1972年(昭和47年)には、赤瀬川、松田哲夫と、初の「トマソン」である純粋階段「四谷階段」を発見した[6]。 デザイナーとして日本能率協会に入社するが、1年で会社が倒産。1972年(昭和47年)、出版社・青林堂入社。のち、雑誌『ガロ』の編集長を7年間務め[3]、イラストレーターの渡辺和博とともに「面白主義」を打ち出して同誌の傾向を変えた。一例として、1976年(昭和51年)から掲載がはじまった、糸井重里と湯村輝彦による「ペンギンごはん」シリーズは、南が湯村単独で、以前に別の雑誌に発表していた漫画をみて、執筆を依頼した。
人物
経歴ができあがるのをずっと見ていられるほどデザイン関係に興味があり、小学6年でデザイナーになりたいと考えていた。多感な中学2年時に水木しげるの貸本漫画「河童の三平」や和田誠のイラスト広告に出合い、絵を描く仕事につきたいと考えるようになった[4]。東京都立工芸高等学校デザイン科卒業[5]。プロデューサーとなった秋山道男は高校の同級生。