南人_(李氏朝鮮)
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2020年7月)

南人(ナミン、: ??)は李氏朝鮮士林派の朋党である。宣祖のときに東人北人と南人に分裂したことにより誕生した。
沿革
東人の分裂

1580年代後半、政権を握っていたのは東人であった。そんな中1589年、鄭汝立が反乱を企てたことが発覚し、朝廷では東人に代わって鄭Kを中心とする西人が実権を握った。しかし鄭Kが光海君の世子冊封を建議したところ東人から「光海君を王世子にして仁嬪金氏とその子信城君の殺害を企てている」との嘘の密告を受けて左遷され、東人は西人に対する粛清を敢行して政権を握っていった。

しかし、東人は鄭Kの処分に対する主張の相違から二派に分裂していった。鄭Kは配流で十分との穏健論を展開したのが禹性伝であった。それに対して鄭Kを死刑に処すべきとの強硬な主張をしたのが李山海だった。また、李山海は別の問題で柳成龍とも対立していた。これにより東人は禹性伝・柳成龍を中心とした南人と李山海を中心とした北人に分党した。

『南人』という呼称の由来は、柳成龍が嶺南出身であったことや禹性伝の実家が南山のふもとにあったこと、拠点が当時都であった漢城より南にあったことなどが挙げられる。

分党以降、鄭Kの処分について南人が主張する流刑が採用されたことで柳成龍や禹性伝が政権を主導していく。だが、豊臣秀吉による朝鮮出兵を契機に柳成龍が罷免されることによって北人による政権が樹立され、長く南人は在野することになった。
政権へ

日本による朝鮮出兵以後、政権は北人が掌握していたが、世子冊封問題で北人は大北と小北に分裂した。大北と小北が党争を繰り広げる中、南人は下野したままでいた。その後、1623年に光海君を王座から追放した仁祖反正が起こると北人の勢力は壊滅し、西人が政権を握ることになった。もちろん南人は下野したままであった。

第18代国王として顕宗が即位すると、当時南人の領袖であった許穆は西人を排撃する好機と見た。孝宗が薨去した際、仁祖の継妃であった荘烈王后の服喪期間が問題となった。荘烈王后は孝宗の義理の母にあたるが、李氏朝鮮では子を亡くした親は長男であれば3年、長男以外であれば1年喪に服すのが慣例になっていたが孝宗を嫡男とみなすか否かで議論を醸していた。そこで西人の領袖・宋時烈が1年喪を主張し、議論に終止符が打たれた。しかし、許穆は議論が尽くされなかったとの口実で3年喪を主張した。3年喪を主張するということは孝宗を仁祖の嫡男とみなすことであり、孝宗の正統性を高く認めることで南人勢力を伸張させる目的があった。しかし、南人の思惑通りに事は運ばれず、西人の見解が認められる形で終息した。(第一次礼訟論争)

1674年、孝宗の王妃仁宣王后が薨去した。すると再び荘烈王后の服喪期間をめぐって論争が起きる。長男の嫁が亡くなった場合、服喪期間は1年だったが、長男以外の嫁であれば服喪期間は9か月であった。この時、西人は9か月喪を主張したが、南人は孝宗の正統性を認める観点から1年喪を主張。顕宗は父の正統性を下げることは認めがたいため、南人の見解を採用した。結果として領議政に南人の領袖である許積が抜擢され、ついに50年続いた西人から南人が政権を奪ったのである。(第二次礼訟論争)
換局期の南人

顕宗の死後、第19代国王として粛宗が即位すると、換局と呼ばれる大胆な政権交代が王命によって断行された。それによって政権の座は南人と西人で揺れ動いていた。

粛宗が即位した当初、政権の座にあったのは南人であった。外戚の金錫冑ははじめ南人に迎合していたが、南人の勢力が増すにつれて自らの立場が危うくなると考えて西人と結託して南人の排除を始めた。そんな中、当時南人の領袖であった許積が宴会を開く際、宮中で使う天幕(個人が私的に使うことは禁じられている)を粛宗の許可を得ずに持ち出した。それを自らの権力に甘んじて王を軽んずるが故の行為だと受け止めた粛宗は南人を辞職させたり追放したりした。(庚申換局)

庚申換局に続いて三福の変が起きた。南人が王族である福昌君、福善君、福平君とともに謀反を企てているとの告発がなされたのである。それにより南人の重鎮は大量に殺害されたり配流された。そして政権は西人が占めるようになった。

南人は下野したが、その間に西人が老論少論の二派に分かれて対立していた。その隙を見て南人は政権奪還を図ろうとする。粛宗が後宮(側室)とした張氏を支持したのである。一方の西人は正室の仁顕王后を支持。南人が西人と対立している中、粛宗の寵愛を一身に受けていた張氏が1688年に男子・李ホを出産する。粛宗はホに元子(王位継承権第一位)の称号を与えようとするが、西人がこれに反対する。粛宗が元子称号を強行しようとすると西人は再度反対する。それに憤慨した粛宗は西人を追放する。これに伴って南人が要職を占める形で政権に復帰した。そして正室であった仁顕王后が廃妃され、張氏が代わって王妃の座に就いた。張氏の兄、張希載が目まぐるしく出世していくと、南人は彼と結んで西人の排除に取り掛かった。謀反の企てを告発したうえで西人に加担の罪を着せ、粛清していったのである。(己巳換局)

南人が張氏兄妹と結託して専断していく中、西人は仁顕王后の復位運動を展開する。南人はそれを機に西人を完全に追放しようとするが、張氏への寵愛が薄れていた粛宗から寵愛を受けていた後宮の崔氏の毒殺未遂事件が浮上すると粛宗は突如として覚書を出し、南人を追放して西人を登用した。この時追放された南人は己巳換局の際に粛清された西人よりもはるかに多かった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:23 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef