南京事件論争史(ナンキン[1] じけんろんそうし)では、南京事件論争の歴史について解説する。また日中政府の対応などについても解説する。 南京事件は、戦後1945年から1946年の東京裁判と南京裁判において虐殺事件として取り上げられ[2]、日本に大きな衝撃を与えた[3]。 重光葵は、1952年の著書『昭和の動乱』の中で、「南京に入城した中島師団の暴挙が主となって、南京における日本軍の乱行(南京の強姦)として、世界に宣伝せされた国際問題がその際起こって、日本の名誉は地に墜ちた。」と書いている[4]。 しかし、東京裁判以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった[5]。1960年代には、五島広作
論争前史
家永三郎『太平洋戦争』(岩波書店 1968年)は、軍人・記者の回想録や洞の著書を引用しながら、南京大虐殺として比較的詳細に記述している[6]。家永は同書で日本軍は「中国人数十万を虐殺した」と書いたものの本格的に検討されなかった[5]。
1970年代
本多勝一・ 山本七平・鈴木明の論争1937年12月13日東京日日新聞。野田巖と向井敏明両少尉は戦後南京裁判で死刑。
再び注目を集めるきっかけとなったのは、日中国交樹立直前の1971年(昭和46年)11月より朝日新聞紙上に掲載された本多勝一記者の『中国の旅』という連載記事である。南京を含む中国各地での日本軍の残虐行為が精細に描写された記事で、南京事件についての一般的日本人の認識はこれ以降大きく広まり、また日本人による南京事件目撃証言がさまざまな雑誌や本に掲載されるようになった[7]。
この記事で「百人斬り競争」が報道されて、山本七平と鈴木明の“百人斬りは虚構である”と批判を始めた[8]。鈴木明の『「南京大虐殺」のまぼろし』(文藝春秋 1973年)は事件の事実自体は全面否定しない立場からの論考であったが、否定説の象徴とみなされるようになり、この書名に影響されて否定説・'否定派を「まぼろし説」「まぼろし派」とも呼ぶようになった[9]。
秦郁彦はこの論争を第一次論争とする[10]。1975年頃の論争は「肯定派」「否定派」「あったとしても大虐殺というほどではないとする人々」の間で激しく展開された[11]。
1980年代
第一次教科書問題と南京大虐殺展覧会南京大虐殺紀念館には犠牲者300000と壁に書かれている。詳細は「第一次教科書問題」を参照
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}三度目に大きく取り上げられるようになったのは、1982年(昭和57年)文部省が教科書検定で「侵略」を「進出」に書き換えさせたとして中国や韓国から抗議を受けた第一次教科書問題である[12][13]。