(国旗)(国章)
国の標語:Justice, Liberty, Prosperity
(英語: 正義、自由、繁栄)国歌:南スーダン万歳!
公用語英語
首都ジュバ
最大の都市ジュバ
政府
大統領サルバ・キール・マヤルディ
第一副大統領リエック・マチャル
第二副大統領ジェームズ・ワニイガ
第三副大統領タバン・デンガイ
第四副大統領レベッカ・ニャンデン・デ・マビオール
第五副大統領フセイン・アブデルバギ
面積
総計619,745km2(45位)
水面積率不明
人口
総計(2020年)1119万4000[1]人(83位)
人口密度18.3[1]人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2019年)8117億南スーダン・ポンド[2]
GDP(MER)
合計(2019年)36億ドル(153位)[2]
1人あたりxxxドル
GDP(PPP)
合計(2019年)214億[2]ドル(133位)
1人あたり1,602ドル
独立
状態の確立2011年7月9日
通貨南スーダン・ポンド(SSP)
時間帯UTC+2 (DST:なし)CAT
ISO 3166-1SS / SSD
ccTLD.ss
国際電話番号211
面積は帰属未定のカフィア・キンギ地区とアビエイ地区を除き、イレミ・トライアングルを全て含む。人口はこれらの帰属未定地域を全て含む。帰属未定地域を全て含んだ面積は644,329平方キロメートル。
南スーダン共和国(みなみスーダンきょうわこく、英語: Republic of South Sudan)、通称 南スーダン は、東アフリカの国家。首都はジュバ。北はスーダン、東にエチオピア、南東をケニアとウガンダ、南西がコンゴ民主共和国、西は中央アフリカと国境を接する内陸国である。
2011年7月9日、スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立した[3]。2024年1月27日22:11(JST)現在、国際連合が承認した中で一番新しい独立国である[4]。 2011年7月8日までは、スーダン領でありながら南部スーダン自治政府の統治下にあった。これは、2005年1月9日にケニアのナイバシャで結ばれた第二次スーダン内戦の包括的な暫定和平合意により、スーダン政府から自治を認められたためである。現在の南スーダンは黒人キリスト教徒を中心に数十の民族が暮らす多民族国家であり、独立前からムスリムのアラブ系を主流とする北部と対立し、アフリカ大陸最長ともされる内戦につながった[5]。 2011年、分離独立の是非を問う住民投票が実施され、分離独立票が98.83%の圧倒的多数を占めた。新国名は「南スーダン共和国(英: The Republic of South Sudan)[6]」になった。過去には、「アザニア」「ナイル共和国」「クシュ」などの候補が挙がっていたが、「南スーダン」となる可能性が高かったとされた[7][8]。 2011年7月13日には国連安保理決議1999により国際連合総会に対し国際連合への加盟が勧告され、翌日の総会にて加盟が承認され193番目の加盟国となった[9]。さらに、AU(アフリカ連合)の54番目の加盟国となった。またイギリス連邦に加盟を申請中である[10]。東アフリカ共同体にもケニアとルワンダの協力で[11]2016年に加盟している。 2014年、非政府組織の平和基金会が発表した「世界でもっとも脆弱な国家ランキング」で、南スーダンは首位となった[12]。2019年のランキングでも3位になっている。独立とともに南スーダン(赤色)を承認した国(青色) 国際通貨基金(IMF)が公表したデータによると、2018年南スーダンは「世界で最も貧しい国」のトップに選ばれた[13]。 首都ジュバは立地が南部すぎることや、再開発が難しいことを理由に、レイク州南東部のラムシールへの移転計画がある。 正式名称は、英語でRepublic of South Sudan。アラビア語では???? ???????(ラテン文字転写 : jan?b al-S?d?n; ジャヌュブ・アッ=スーダーン)。 日本語の表記は、南スーダン共和国。通称、南スーダン。漢字表記は、南蘇丹。 「スーダーン」はアラビア語で「黒い人」を意味する言葉を原義とし、元来は北アフリカのアラブ人たちからみて南に住む黒人の居住地域、すなわち西アフリカから東アフリカに至るまでのサハラ砂漠以南の広い地域を指す地域名称である。 南スーダン独立後、それまで宗主国であったスーダン共和国との違いを明確化させる為、二国間関係を表す際に「南北スーダン」とする表現はメディアなどでよく見られる。.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}
概要
国名
歴史詳細は「スーダンの歴史(英語版
かつて南部の黒人たちは、アラブ系やダルフールおよびバハル・アル・ガザールなどの奴隷商人によって奴隷売買されていた。1821年にスーダンの北部はエジプトが、南部は1877年にイギリスが占領した。1898年にイギリスとエジプトによる共同統治(英埃領スーダン)が始まった。南部を支配していたイギリスはその南部のウガンダとの統合を望んだが、1947年のジュバ会議
(英語版)での合意により南北スーダンの統合が決められた。1955年に南部で反乱が起き、第一次スーダン内戦(1955年 - 1972年)が起きた。1956年にスーダン共和国として北部と南部が統一して独立したが、北部の政治的・経済的支配に南部の住民は不満を抱いていた。1972年にアディス・アベバ合意により南部に制限つき自治権が与えられ、将来の南部の分離独立を問う住民投票も認められ、南北の内戦は一時終結した。
1974年にシェブロンが油田を発見し、その多くが南部に分布していた。
第二次スーダン内戦スーダン人民解放軍を率いたジョン・ガラン
民族イスラム戦線の圧力も受け、1983年にモハメド・アン=ヌメイリ政権は南部の自治権や将来の分離独立の住民投票を取り止め、イスラム法シャリーアを導入してイスラム勢力の取り込みを図り、また石油資源の独占を図り、南部の3つの州をそれぞれ分割した。そのためキリスト教徒も多い南部などで反乱が起こり、南部最大の民族であるディンカ人の出身のジョン・ガラン大佐を中心としたスーダン人民解放軍/運動(SPLA/M)が北部の政権に対して反乱を起こし、第二次スーダン内戦(1983年 - 2005年)が起きた。政権が交替しても内戦が収まることはなく、1989年にオマル・アル=バシールが政権を握ると、イスラムを支持母体とする政権に反対する政治勢力を抑圧し、SPLAをはじめとする南部の反政府組織に対する戦争を拡大していった。