南イタリア
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南イタリア8州(サルデーニャが入っている)

南イタリア(みなみイタリア)は、イタリアの南部地域の呼称。メッツォジョールノ(Mezzogiorno:イタリア語正午の意味)という俗称もあり、これは南イタリアを征服したジュゼッペ・ガリバルディによって広められた。
定義

イタリアは南北に二分する場合と、北部・中部・南部に三分する場合があるが、主に後者の場合が多い。「南イタリア」に含まれる州は、論者や観点により変動する。

国立統計研究所 (ISTAT) は統計上イタリアを5地域に区分[注釈 1]しており、イタリア南部(: Italia meridionale、: South Italy)にはカンパニア州アブルッツォ州モリーゼ州プッリャ州バジリカータ州カラブリア州の6州が入る。欧州連合 (EU) も、第一種地域統計分類単位 (NUTS 1) や欧州議会議員選挙の区割りとしてこの区分を用いている。

「南イタリア」は、この南部6州にシチリア州を加える場合が多い。これは、イタリア統一以前の両シチリア王国(中世以来のシチリア王国ナポリ王国)の領域に由来し、極めて近似した文化と密接な経済網を持つと考えられている。

また、これにラツィオ州サルデーニャ州を入れることもある。これはイタリアを南北に二分した際に用いられることが多い。
文化

近似性があるとはいえ、シチリア王国ナポリ王国は分立していた時代の方が長く、またシチリアが島であることから、同じ南部でも違いが存在すると言われる。言語的にもシチリア語ナポリ語は厳密に区別される。加えて他の州の間にも、一定の共通性と同時に異なる特色を抱いていることを矮小化すべきではない。とはいえ、政治的に大きくまとめられていたこともあってか、北部に比べて各地方の文化的差異は小さい。

南イタリア地域が中央集権的な外国人による支配があった時代が長かった。そのため中央政府に対する不信感があり、その一部がシチリアのマフィアを代表として、カモッランドランゲタなどの犯罪組織へ成長した。
政治


イタリア王国の国旗(左)と、両シチリア王国の国旗(右)

南イタリアは保守的な地域で、1946年王政廃止に関するイタリアの国民投票では、北部は王政廃止が多数を占めたが、南部では王政維持が多数を占めた。ナポリでは住民の約80%が王政廃止に反対でウンベルト2世は君主制存続の戦いのため南イタリアに亡命するのではないかと噂をされたほどだった。全国の選挙結果が発表され君主制廃止が決まると、ナポリの右翼団体が暴動を起こし治安当局との間で流血沙汰になった(メディナ事件(イタリア語版))。

サヴォイア家の復位を望む王党派が依然として強固な支持を得ていることでも知られるが、一方でサヴォイア朝を敵視し、それ以前のシチリア・ブルボン朝の復活と南イタリア独立を望む両シチリア独立運動も存在する。

ネオ・ファシスト党(現・国民同盟)の支持基盤でもある。近年になって自治への運動などの地域政党が北部同盟を参考にして立ち上げられたが、こちらは逆に余り支持を得られてはいない。

都市国家の伝統から地域対立が激しく地方分権を求める運動が盛んな北部に比べると、南部は中央集権を望む傾向にある。
南部問題詳細は「南部問題(イタリア語版)」を参照1871年のイタリアの工業化指数。濃い色ほど工業化が進んでいることを示す。南イタリアは工業化が立ち遅れていることが分かる。チェーザレ・ロンブローゾ

北部に対する南イタリアの経済格差の問題や、南部に対する差別などの問題は総称して南部問題(イタリア語版)と呼ばれる[1](→イタリア統一運動#南部問題の発生も参照)。

19世紀にイタリア統一運動が勃興したが、南イタリアを統治する両シチリア王国シチリア・ブルボン朝)のフランチェスコ2世やローマ教皇ピウス9世はそれに否定的な態度だった。ジュゼッペ・ガリバルディによって両シチリア王国が征服されイタリア王国が成立すると、ブルボン朝への崇敬の念が強く、また熱心なキリスト教信者が多い南イタリアでは、それに抵抗するデモや反乱・ブリガンテ(イタリア語版)(「山賊」「匪賊」と和訳される)の活動が活発化した[2][3]。元々北イタリア人は南イタリア人を蔑視していたが、それらによって「野蛮な南部」という差別感情がさらに増幅された[4]。統一政府はそれらを一律に「山賊」と呼んで弾圧した[5]。イタリア議会は、ブリガンテを徹底的に取り締まるため1863年にピカ法(イタリア語版)を制定した[6]。この法令は南イタリアで適用された。ブリガンテは軍事裁判で裁かれることになり、ブリガンテとその共犯が疑われる人物に対して強制指定居住を命じることが可能になった[7]。この法令の問題点は「共犯者」の定義があいまいなことで、ブリガンテと無関係なその親族や友人のほか、共和主義者(民主主義者)や旧ブルボン朝支持者など統一政府にとって都合の悪い人物も無差別に逮捕され、南部住民の権利が抑圧された[8]

北イタリア人やイタリア各地の自由主義者らは南部に対して差別感情を持っていた。イタリア王国宰相のカミッロ・カヴールは南イタリアを「イタリアで最も腐敗した地域」と呼んだ[9]。ルイージ・ファリーニ(イタリア語版)も「(南イタリアの)モリーゼ・テッラ・ディ・ラヴォーロ(イタリア語版)は何という野蛮な地域だ。まるでアフリカだ。この地域の農民に比べればベドウィン(アフリカの遊牧民)の方がまだ文明的だ。」[10][11]「南部の住民約700万人のなかにイタリア統一を欲する人物は100人もいない。自由主義者などここには一人もいない。このようなクズ連中を一体どうすれば良いのか。奴らにむち打ち刑でも課すことができれば、奴らを矯正できると思うのだが。」と放言している[12]。自由主義者に対する厳しい取り締まりが行われていた祖国両シチリア王国からサルデーニャ王国へ亡命したフランチェスコ・トリンケーラ(Trinchera Francesco Paolo)は、祖国の民衆を次のように述べている。トリンケーラの考えは国民の野蛮さ・無知蒙昧さ・民度の低さゆえブルボン朝のような悪政を行う政体が存続している、というものだった[13]。思い込みや迷信に深くとらわれ堕落した人々、邪視や憑依、魔術や魔術師、魔女やその呪い、夢魔聖ジェンナーロの血の溶解、その他ありとあらゆる狂った馬鹿馬鹿しいことを信じ込む人々が、自由について真剣に考えたり、その意味を理解したり、それを望んだり、それのために命を懸けたりしないのは、容易に理解できるであろう[13]

19世紀にイタリアユダヤ人チェーザレ・ロンブローゾは、脳が生物的に退化し罪を犯しやすい精神的気質を持つ「生来性犯罪者」という概念を提唱した。「生来性犯罪者」は骨相学観相学に基づき身体的特徴から判別できるとした[14]。ロンブローゾは罪を犯す危険性が高い「生来性犯罪者」を罪を犯す前に事前に識別し、社会から隔離しておくのが良いとした[14]


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