南の風
(長崎県民歌)
県民歌の対象
長崎県
作詞県民の歌作詞委員会
作曲山口健作
採用時期1961年
言語日本語
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「南の風」(みなみのかぜ)は日本の都道府県の一つ、長崎県が制定した県民歌である。作詞・県民の歌作詞委員会、作曲・山口健作、編曲・船村徹。
曲の表題は資料により「長崎県民歌 南の風」、もしくは「わがふる里長崎県の歌『南の風』」とされている場合がある。本項では、県民歌と同じSPレコードに収録されている「長崎県民音頭」についても解説する。 「長崎県民歌 南の風」 公選第4-6代知事の佐藤勝也が打ち出した「県勢振興5ヵ年計画構想」の一環として「明るく楽しい県民生活のために、いつでもどこでも、誰にでも歌える歌」を制定意義とする県民歌の制定が提唱され、県民の歌作詞委員会が組織された[1]。しかし、応募された歌詞の審査結果は「該当作無し」となり、作詞委員会が新規に作成した歌詞を使用している[2]。作曲は依頼により長崎大学教授(当時)・山口健作が行い、船村徹が編曲を担当した[2]。 1961年(昭和36年)、先に完成していた「長崎県民音頭」と合わせて若山彰と初代コロムビア・ローズが歌唱するSPレコードが日本コロムビアより発売され、県内の市役所・町村役場に配布された[1]。このレコードは県の予想以上の人気を博し、佐藤知事は「くちびるに歌を」をキャッチフレーズとする歌声運動を提唱する。そして自ら作詞した「この道を歩もう」「悲しみを越えて」の2曲の作曲を明本京静に依頼し、安西愛子が歌唱するレコードの製作費用70万円を県の予算に計上したが県議会で「売名行為」との批判が相次ぎ、レコードの製作費用は予算から削除された[1]。 2000年代以降は長崎県障害者スポーツ大会 「南の風」と同じレコードのB面に収録されている「長崎県民音頭」は県民歌に先駆けて歌詞を公募し、2代目「ラジオ体操の歌」(1951年 - 1956年)の作詞者として知られる脇太一の応募作が採用された[1]。作曲は選考委員を務めた木野普見雄が行い、1959年(昭和34年)4月に出島の三菱会館で開催された「第2回県民謡民芸顕彰大会」で初演奏が行われた[1]。 歌詞は団体名義につき、2011年(平成23年)12月31日に著作権の保護期間を満了。一、南(みんなみ)の 風(かぜ)と光(ひかり)に とつくにの 文化(ぶんか)のうしお花咲(はなさ)きし 伝統(でんとう)ひめて はて知(し)らぬ 希望(きぼう)に生(い)くる長崎県(ながさきけん) わがふる里(さと)よ 二、青(あお)に冴(さ)ゆ み山雲仙(やまうんぜん) 山脈(やまなみ)の 重(かさな)なるところ殉教(じゅんきょう)の 道(みち)も清(きよ)らに 限(かぎ)りなき 生命(いのち)は映(は)ゆる長崎県(ながさきけん) わがふる里(さと)よ 三、雲(くも)ながる 海原(うなばら)ゆけば 壱岐対馬(いきつしま) 五島(ごとう)の彼方(かなた)ゆたかなる 海(うみ)の幸(さち)あり 大漁(たいりょう)の 旗(はた)はかがやく長崎県(ながさきけん) わがふる里(さと)よ 四、こだまする 造船(ぞうせん)の業(わざ) 大(おお)いなる 七(なな)つの海(うみ)に新(あた)らしき 船(ふね)を浮(う)かべて 美(うつく)しく 世界(せかい)を結(むす)ぶ長崎県(ながさきけん) わがふる里(さと)よ
解説
若山彰、コロムビア・ローズ(初代) の シングル
B面長崎県民音頭
リリース1961年
規格SPレコード
ジャンル都道府県民歌
レーベル日本コロムビア
作詞・作曲南の風‥作詞:県民の歌作詞委員会、作曲:山口健作、編曲:船村徹
長崎県民音頭‥作詞:脇太一、作曲:木野普見雄
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長崎県民音頭
歌詞
脚注^ a b c d e f 宮川密義「 ⇒長崎の歌(47)県・長崎市制作の歌」(長崎Webマガジン「ナガジン」)
^ a b 国民文化協会『事典 シンボルと公式制度 日本篇』(国際図書、1968年)、243ページ。
外部リンク
⇒長崎県民歌「南の風」(長崎県庁)
長崎県民歌「南の風」
.mw-parser-output .redirectcatnav{margin:1em auto;border-style:none;text-align:left;font-size:100%;clear:both}.mw-parser-output .redirectcat ul{margin-left:0}長崎県民音頭
九州地方の音頭