「卑弥呼」のその他の用法については「卑弥呼 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
卑弥呼
在位中平5年(188年)頃?正始8?9年(247年?248年)
出生建寧3年(170年)頃
死去正始8?9年(247年?248年)
子女台与(宗女)
宗教鬼道
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卑弥呼(ひみこ/ひめこ、建寧3年(170年)頃 - 正始9年(248年))は、『魏志倭人伝』等の古代中国の史書に記されている「倭国の女王」と称された人物[1][2]。魏志倭人伝によると、倭人の国は多くの男王が統治していた小国に分かれていたが、2世紀後半に小国同士が抗争したために倭人の国は大いに乱れた。そのため、卑弥呼を擁立した連合国家的組織をつくり安定した。卑弥呼は鬼道に仕え、よく大衆を惑わし、その姿を見せなかった。生涯夫をもたず、政治は弟の補佐によって行なわれた」と記されている[3][注釈 1]。諱も不明で、239年に三国時代の魏から与えられた封号は親魏倭王。247年に邪馬台国が南に位置する狗奴国と交戦した際には、魏が詔書と黄幢を贈り励ましている。古代の日本で記述された「古事記」「日本書紀」に卑弥呼は登場しないため、日本国内では別の名前で呼ばれていたとされる[4][5]。
史書の記述
『三国志』の卑弥呼
「魏志倭人伝」の卑弥呼魏志倭人伝の原文の抜粋
「魏志倭人伝」によると卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。また、卑弥呼は邪馬台国の王というのは間違いという説がある。魏志倭人伝で「輒灼骨而卜、以占吉凶」(骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う)とあるように卜術をよく行う巫女(シャーマン)であり、儒教の反迷信(鬼神信仰)的視点から「鬼道」と記された可能性が高い。
本人は人前に姿を現さず、弟だけにしか姿を見せなかった。
福岡県糸島市の平原遺跡から八咫の鏡と同じ直径の大型内行花文鏡5枚を始め大量の玉類や装身具が出土していることから原田大六は被葬者は太陽神を崇める巫女であったとしたが、魏志倭人伝における伊都国の重要な役割から、卑弥呼は伊都国に繋がる系統の巫女であった可能性がある。
既に年長大であり、夫はいない(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食の給仕や伝言を伝えるなどする[6]とともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観
や城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当し、約90m)の範囲に多数の塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人)。 『三國志』(三国志)の卷四 魏書四 三少帝紀第四には、正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。
「魏書帝紀」の俾弥呼
年譜
『後漢書』
建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。
永初元年(107年) - 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。
桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。
桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)の末頃 - 一女子がいて、名を卑弥呼という。成人で独身、鬼神道につかえよく人々を惑わしていた。各国は共同して卑弥呼を立て王と為した。
『三国志』
中平五年(188年)頃 - 倭国で男性の王の時代が続いた(80年間)が、その後に内乱があり(6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼の即位)。その女子の名を卑弥呼といい既に成人(20代)で夫はいなかった、1,000人の侍女たちを使えさせたという。
景初二年(238年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた[注釈 2]。
正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
正始四年(243年)12月 - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
正始六年(245年) - 難升米に黄幢を授与[注釈 3]。
正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、当時、卑弥弓呼(卑彌弓呼、ひみここ、ひみくこ)が治める狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢[注釈 4] を授与。
正始八年(247年) - 卑弥呼が死去。
正始八年(247年)以降 - 男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與(台与、いよ、とよ)」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠
『晋書』
文帝(司馬昭)が魏の政権にあった時代(255年?265年) - 女王の使者が何度もやって来た。
泰始二年(266年) - 倭の遣使が入貢。邪馬台国からの最後の入貢。
『三国史記』新羅本紀
173年 - 倭の女王卑彌乎[注釈 5] が新羅に使者を派遣した[7]。
193年 - 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ押し寄せた[注釈 6][8]。
208年 - 倭軍が新羅を攻め、新羅は伊伐?の昔利音を派遣して防いだ[9]。
232年 - 倭軍が新羅に侵入し、その王都金城を包囲した。新羅王自ら出陣し、倭軍は逃走した。新羅は軽騎兵を派遣して追撃、倭兵の死体と捕虜は合わせて千人にも及んだ。
287年 - 倭軍が新羅に攻め入り、一礼部(地名、場所は不明)を襲撃して火攻めにした。倭軍は新羅兵千人を捕虜にした。
『三国史記』于老列伝
233年 - 倭軍が新羅の東方から攻め入った。新羅の伊?の昔于老[注釈 7] が沙道(地名)で倭軍と戦った。昔于老は火計をもって倭軍の船を焼いたので倭兵は溺れて全滅した。
249年 - 倭国使臣が新羅の舒弗邯の昔于老[注釈 8] を殺した。
以下の3つの中華正史にも記事はあるが、いずれも倭国の歴史をふりかえるという文脈での記述であり、史料としての価値はない。
『梁書』
光和年間(178年 - 184年) - 倭国の内乱。卑彌呼という一人の女性を共立して王とした。
正始年間(240年 - 249年) - 卑弥呼死去。
『隋書』
桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。
189年前後か - 卑彌呼という名の女性がおり、鬼道を以てよく大衆を魅惑したが、ここに於いて国人は王に共立した。