半田 百合子
HANDA Yuriko
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1940-03-31) 1940年3月31日(84歳)[1]
出身地栃木県宇都宮市[1]
ラテン文字HANDA Yuriko
身長166cm
体重60kg
選手情報
ポジションセンター
獲得メダル
バレーボール
オリンピック
金1964 東京女子
世界選手権
金1962 モスクワ女子
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半田 百合子(はんだ ゆりこ、現姓:中島[1]、1940年3月31日[1] - )は、日本の元女子バレーボール選手。1964年東京オリンピックバレーボール女子金メダリスト。東洋の魔女 (Oriental Witches) [2]の主力メンバー[1]。 1940年(昭和15年)3月31日[1]、栃木県宇都宮市大寛町に生まれる[1]。 父の転勤により栃木県栃木市に転居し、栃木市立栃木南中学校でバレーボールを始めた[1]。 栃木県立栃木女子高等学校時代[1]は全く無名の選手だった。 高校卒業後、1958年に日紡(現・ユニチカ)に入社し、日紡東京で頭角を現し、日紡貝塚チームの大松博文に認められ、1959年11月に日紡貝塚チームに移籍する。 大松からの激しいしごき練習内容に「殺されそう」「もう辞めよう」と退部を申し入れながらも、大松からの慰留もあり最後までへこたれなかった[1]。レシーブ、トス、スパイクと三拍子揃った好選手であり、運動神経のよさはチーム随一であった[3]。そして東洋の魔女のレギュラーメンバーとして、1964年の東京オリンピック金メダル獲得に大きく貢献した。 東京五輪後に選手を引退し、1966年から京都産業大学体育講師を務めた[1]。 その後、バレーボール界から退いて田崎真珠に入社し営業を担当[1]。男社会の中で活躍し、大阪なんば店店長や女性初の京都ブロック長に就任した[1]。この時期に離婚も経験した[1]。2000年(平成12年)3月に定年退職した[1]。 2000年(平成12年)9月の時点で2人目の夫と共に滋賀県の琵琶湖に近い別荘地で暮らしていた[1]。 現在は講演講師を務めている。
来歴
球歴
栃木女子高校 → 日紡東京 → 日紡貝塚(-1964年)
全日本代表としての主な国際大会出場歴
オリンピック - 1964年
世界選手権 - 1962年
脚注^ a b c d e f g h i j k l m n o p 「下野新聞」2000年(平成12年)9月17日付 22面「とちぎ20世紀 87」「東洋の魔女」「半田 百合子(1940年?)」「拾って拾って五輪「金」」「小さなエース、攻め多彩」「「人生も回転レシーブ」モットーに」