半井驢庵
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半井 驢庵(なからい ろあん)は、室町時代から江戸時代にかけて、医家半井家のうち、半井明親(初代驢庵)の子孫が代々称した名。うち数名は「通仙院」の院号を称している。半井驢庵家(半井通仙院家)は、江戸幕府において奥医師の長(典薬頭)を今大路道三家(今大路家曲直瀬道三の末裔)とともに務めた。
歴代
初代 明親詳細は「半井明親」を参照

「驢庵」を称した初代である半井明親は、室町時代後期の人物で[1]、典薬頭を務めた和気(半井)利長の子。

永正年間(1504年 - 1521年)にへ渡航し、時の正徳帝(武宗)の診察にあたり、銅硯1面と驢馬2頭を与えられた[1]。日本への帰国後、驢馬1頭を後柏原天皇に献上[1]。明の官服を着て驢馬に乗って参内することを許されるとともに、「驢庵」の称を与えられた[1]。半井家の裏菊の家紋は、将軍足利義政(1436年 - 1490年)より与えられたものとも[2]、天皇から与えれた中啓(末広とも。扇子の一種)の紋様を家紋にしたものともいう[1]。また、半井家の家名は明親の屋敷にあった井戸に由来すると説明される[3]天文16年(1547年)死去[1][4][2]大徳寺真珠庵に葬られた[2]
2代 光成(瑞策)詳細は「半井瑞策」を参照

2代驢庵は、初代驢庵(明親)の二男[2]。諱は光成、号は瑞策[5][6]正親町天皇(在位: 1557年 - 1586年)より『医心方』30巻と通仙院の院号を与えられた[5][6]。正親町天皇の時代には法印に叙すことが検討されたが、先任の法印がいる場合にはその上席に就けることができないため[2]、深黒の素絹を着用することを許し[2]僧綱によらずに[7]法印の上席とした[2]。これは他の医官と異なる半井家の特例となった[2]文禄5年/慶長元年(1596年)死去[6][5]
3代 成信(瑞桂)詳細は「半井成信」を参照

3代驢庵は、2代驢庵(瑞策)の子で、諱は成信、号は瑞桂・任世翁・通仙院[8]。徳川家康や徳川秀忠に薬を調進した[8]。寛永元年(1624年)、父の先例により、法印に叙されずに勅命によって深黒の素絹の着用を許された[8]。また「通仙院」の院号を称することが許され[8]、「驢庵」の号は嫡孫の半井成近に譲っている[8]

『寛政譜』によれば寛永15年(1638年)に京都で没したとあるが[8]、大徳寺真珠庵の墓石銘によれば寛永16年(1639年)没。
4代 成近(瑞寿)詳細は「半井成近」を参照成近が知行地の屋敷に植えたものと伝える「有馬のハルニレ」(神奈川県海老名市)

4代驢庵は、3代驢庵(成信)の孫で、諱は成近、号は瑞寿[8]。寛永元年(1624年)に江戸に召し出されて徳川家光奥医師として仕える[8]、寛永9年(1632年)に相模国高座郡で1000石の知行を与えられた[8]。寛永16年(1639年)には家光の命を受けて京都に派遣されて東福門院の治療にあたった[9][8]


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