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をお願いします。(2020年5月)半井 清(なからい きよし、1888年3月31日 - 1982年9月3日)は、日本の内務官僚、政治家。官選府県知事、北海道庁長官、横浜市長。 岡山県出身。衆議院議員・福井三郎の長男として生まれるが半井家を継いだ。第一高等学校を経て、1913年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、大阪府属となり内務部地方課に配属。その後、大阪府理事官、大阪府視学官、石川県理事官などを歴任。 1919年10月、朝鮮総督府に転じ学務局宗教課長に就任。さら兼総督官房文書課長、学務局学務課長などを歴任した。 1923年5月、内務省社会局第二部第二課長に転じた。以後、滋賀県警察部長、福島県書記官・内務部長、栃木県書記官・内務部長、大阪府書記官・内務部長などを歴任。 1931年1月、佐賀県知事に就任。同年12月、宮崎県知事に発令されたが赴任を拒否し辞職。1932年6月、栃木県知事に就任し、宮城県知事を経て、1935年6月、内務省社会局長官となる。1936年3月、神奈川県知事に発令され、北海道庁長官、大阪府知事を歴任し、1941年1月に退官した。 1941年2月、横浜市長に就任し1946年11月まで在任したが公職追放となる。1951年8月に公職追放が解除され、1952年11月から横浜商工会議所会頭を務める。1959年4月、前横浜市長・平沼亮三の死去に伴う市長選で当選し、二度目の横浜市長に一期在任した。 1982年9月3日死去。墓所は東京都港区にある表参道駅至近の青山善光寺。
経歴
栄典
勲章等
1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[1]
外国勲章佩用允許
1943年(昭和18年)9月11日 - ドイツ国:フェルディーンストクロイツミツトデムシュテルンアードレル勲章[2]
参考文献
秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
『日本の歴代知事 第1巻』歴代知事編纂会、1980年。
秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
脚注[脚注の使い方]^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
^ 「谷正之外二十五名
ビジネス
先代
原良三郎横浜商工会議所会頭
第13代:1952年 - 1959年次代
田中省吾
関連項目
表
話
編
歴
横浜市長(第13代:1941年 - 1946年 / 第17代:1959年 - 1963年)
官選
区長
島田豊寛1878.11.18-1879.12.10
山田雪助1879.12.10-1883.6.16
箕輪三郎1883.6.16-1886.9.6
増田知1886.9.6-1889.4.1
市長
増田知1889.6-1890.2
佐藤喜左衛門1890.3-1896.3
梅田義信1896.6-1902.9
市原盛宏1903.1-1906.5
三橋信方1906.9-1910.6
荒川義太郎1910.9-1913.11
安藤謙介1914.7-1918.7
久保田政周1918.8-1922.5
渡辺勝三郎1922.11-1925.4
有吉忠一1925.5-1931.2
大西一郎1931.3-1935.7
青木周三1935.8-1941.2
半井清1941.2-1946.11
公選
石河京市1947.4-1951.4
平沼亮三1951.4-1959.2
半井清1959.4-1963.4
飛鳥田一雄1963.4-1978.3
細郷道一1978.4-1990.2
高秀秀信1990.4-2002.4.7
中田宏2002.4.8-2009.8.17
林文子2009.8.30-2021.8.29
山中竹春2021.8.30-
横浜市ポータル
表
話
編
歴
大阪府知事(官選第27代:1939年 - 1941年)
官選
醍醐忠順
後藤象二郎
由利公正御用取扱
西四辻公業
渡邊昇権知事→知事
建野郷三
西村捨三
山田信道
内海忠勝