升田幸三
[Wikipedia|▼Menu]

 升田 幸三 実力制第四代名人
1952年
名前升田 幸三
生年月日 (1918-03-21) 1918年3月21日
没年月日 (1991-04-05) 1991年4月5日(73歳没)
プロ入り年月日1934年2月(15歳)
(初段)[1]
棋士番号18
出身地広島県双三郡三良坂町(現三次市
所属日本将棋連盟(関西)
→将棋大成会(関西)
→日本将棋連盟(関西)
→日本将棋連盟(関東)
師匠木見金治郎九段
弟子桐谷広人
段位九段
棋士DB升田 幸三
戦績
タイトル獲得合計7期
一般棋戦優勝回数6回
通算成績544?376 (.591)
順位戦最高クラスA級(31期[2]

2022年2月13日現在
テンプレートを表示

升田 幸三(ますだ こうそう/ますだ こうぞう、1918年大正7年〉3月21日 - 1991年平成3年〉4月5日)は、将棋棋士、実力制第四代名人。棋士番号18。

木見金治郎の弟子であり、木村義雄塚田正夫大山康晴と死闘を演じ、木村引退後は大山と戦後将棋界で覇を競った。

名前の読みは「こうそう」であるが、将棋界では「こうぞう」で通した[3]。次男は元東急文化村社長の升田高寛。
経歴

父栄一、母カツノの四男として生まれる。1932年(昭和7年)2月に「日本一の将棋指し」を目指して家出。家出の時に愛する母の使う物差しの裏に墨でしたためた「この幸三、名人香車を引いて勝ったら…」の文言は、後に現実のものとなる(詳細は後述)。

広島市での飲食店やクリーニング店の丁稚奉公など紆余曲折を経て、大阪の木見金治郎八段の門下生となる。同門の先輩には大野源一角田三男、また後輩には終生のライバル大山康晴がいる。初段でプロになるまで(当時のプロ棋士は初段からだった[4])が長かったが、1934年(昭和9年)2月に初段になってから[1][注釈 1]、めきめきと頭角を現す。この頃、坂田三吉から「あんたの将棋は大きな将棋や、木村義雄を倒せるのはあんただけや」と激励される。

1935年(昭和10年)関西にも奨励会ができ、当時三段だった升田も本来は奨励会員となるはずであったが、特別の強さを認められ三段でありながら引き続き新聞棋戦に登場していた[6]

1939年(昭和14年)に徴兵されて陸軍に入隊し、1942年(昭和17年)まで広島の部隊に所属[7]。1943年(昭和18年)に再度召集。翌1944年(昭和19年)南方へ派遣され、セニヤビン諸島のポンペイ島(現:ミクロネシア連邦ポンペイ州の主島)に上陸する。同島は米軍の制空権下にあり、補給も途絶し、ジャングルの中を爆撃から逃げ回る苛酷な戦況に戦死も覚悟するが、同島には米軍が上陸してこなかったため玉砕は免れた。戦地では食糧不足に悩み、食べられるものは何でも食べたためかえって体を悪くした。ライバルの木村のことを思い出し「月が通信してくれるなら木村と将棋が指したい」と涙に暮れたという[8]

1945年(昭和20年)の暮、復員して将棋を再開。このころ、名人戦になかなか登場できなかったが人気抜群の升田のために、公式棋戦以外に以下の番勝負が行われている。

1946年 新大阪新聞主催(企画・小谷正一[9]) 木村義雄名人・升田幸三七段 五番勝負(升田が香落下手、平手、平手と三連勝で終了)

1947年 地方新聞社三社主催 木村義雄前名人・升田幸三八段 三番勝負(升田一勝二敗)

1948年 朝日新聞社主催 塚田正夫名人・升田幸三八段 五番勝負(升田二勝三敗)

1948年(昭和23年)の第7期名人挑戦者決定三番勝負(対大山戦・高野山の決戦)の第三局において、勝勢であったが手拍子の大悪手を指して、頓死を食らい「錯覚いけない、よく見るよろし」という有名な言葉を残す。当時、毎日新聞社文芸部の副部長として第三局を観戦した井上靖は、勝負の世界の烈しさに強い感動を覚え、小説家となった後の1951年(昭和26年)に、この対局をモデルにして短編小説「勝負」を書いている[10]

関西在住だったが、1955年(昭和30年)に東京に居を移す[注釈 2][11]

タイトル戦でなかなか大山に勝てなかったが、1957年、ついに大山を倒して将棋史上初の三冠(名人・王将・九段)制覇を成し遂げた時「たどり来て、未だ山麓」との言葉を残す。

「魅せる将棋」を大切にし、既成の定跡にとらわれず「新手一生」を掲げ、常に序盤でのイノベーションを数多く起こした。振り飛車・居飛車共に数々の新手を指し、「将棋というゲームに寿命があるなら[注釈 3]、その寿命を300年縮めた男」と評された[注釈 4]。有名な新手には升田式石田流雀刺し急戦矢倉棒銀ひねり飛車、対ひねり飛車タコ金、角換わり腰掛銀升田定跡、駅馬車定跡、升田式向かい飛車、一間飛車、居飛車穴熊[注釈 5]などがある。その功績を記念して、毎年行われる将棋大賞にて、新手や新戦法を編み出した棋士を表彰する「升田幸三賞」が、升田の没後3年余り経った1995年(1994年度)から設けられている。

(角行)使いの名手であり、特に、自陣から敵陣をにらむ「遠見の角」を好んだという。

将棋界に大きな功績を残した升田だったが、戦争中に患った病気が元で体調を崩し、現役晩年は休場の年も多かった。そのためタイトルなどの実績面では大山に押され、永世名人などの称号は得られなかったが、順位戦A級から一度も陥落することなく1979年に引退した。将棋連盟では1988年に升田のために新たな称号を作って「実力制第四代名人」の称号を贈った[注釈 6]

順位戦A級在籍は通算31期(名人2期と休場8期含む)。順位戦A級参加時は休場期と最後の皆勤となった第30期で4勝5敗に終わった以外の期はすべて勝ち越しており、A級の勝率0.724(139勝53敗1持将棋)は、2021年3月現在において現役を除く歴代A級棋士の中の最高勝率である。

実質的な後継者は加藤一二三であるとされているが、加藤のみならずその棋風を慕う棋士は多く、米長邦雄は「升田さんの序盤は天才的」と言っている。他にも現在の第一人者の羽生善治も将棋を指したい人は誰かと言う問いに「升田先生と指したい」と述べている[注釈 7]将棋年鑑で「指してみたい棋士」という全棋士アンケートが実施された際にも(羽生世代の棋士は大山と指したことがあるという事情はあるにせよ)、升田の名をあげた棋士の数は、大山・木村を凌いでいる。谷川浩司とはペア将棋では対局したことはあるが(谷川は森?二と、升田は内藤國雄とそれぞれペアであった)、通常の対局で指したことはなかった。

公式戦の絶局は引退後1982年2月27日に羽澤ガーデンにおいてであった。当時プロに匹敵する実力を持つと言われていたアマ名人の真剣師・「新宿の殺し屋」こと小池重明と角落ちで対局し完勝している。アマとはいえ当時の小池はめっぽう強く、十五世名人・大山は角落ちで敗れ、当時の名人中原誠とは角落ちで1勝1敗、棋王・米長邦雄も同様の成績。若手強豪の棋聖・森?二に至っては三連敗(角落ち、香落ち、平手)とプロが次々に負けていた。この将棋は記録が残っている升田の最後の対局で、引退して3年ほど経っていた升田に春秋に富む気鋭の小池が挑んだものである。対戦前は名人二名、棋王・棋聖と現役強豪トッププロを次々に破っていた小池優勢と見られており、事実途中まで小池は優勢に進めていた。升田は飛車の上に玉を乗せる飛頭の玉という奇手(‘棒玉’と呼ばれている新手の嵌め手)で対抗した(小池重明#エピソード参照)。小池が50手目に指した8五歩において小池は作戦勝ちを確信したという。小池は升田が9四金と逃げるとばかり思っていたというが、升田はあっさりと8五同金と金歩の交換に応じ、その瞬間に小池の勝ちは無くなった。局後升田は小池に「8五歩と打ったのはやはり素人だな。君は私がプロだということを忘れとったろう」と言ってのけた。[12]このように、升田は最後の最後まで新手を出現させた人生であった。

1991年、心不全のため73歳で死去した。晩年は羽生や先崎学といった若手強豪や観戦記者と碁を楽しんでいたという。[13]
エピソード

ヘビースモーカーであり、一日に300本も吸ったといわれる。また酒豪でもあり、後に
谷川浩司には、「自分は5歳のときから酒を飲んでいたので記憶力が減退してしまった。酒は控えなさい」とアドバイスしている。反面、ギャンブルは大嫌いで、一応一通り試してみたが「運に左右されるものは勝負じゃない」と終生好まなかった。

生涯のライバル大山康晴との対局について、王将戦の記録係を務めた内藤國雄はこう語っている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:96 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef