千野敏子
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ちの としこ
千野 敏子
高島城址にて
(1942年1月、中央が敏子)[注 1]
生誕1924年3月15日[2]
日本 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市[2]
死没 (1946-08-02) 1946年8月2日(22歳没)
日本 長野県諏訪郡上諏訪町[3]
死因病死腸捻転[4]または腸閉塞[5]
墓地温泉寺[6]
記念碑富士見町コミュニティプラザ敷地内[7]
住居 日本 長野県諏訪郡富士見村栗生(現・富士見町富士見栗生)
国籍 日本
教育上諏訪町立高島小学校卒業[8]
長野県諏訪高等女学校本科卒業[9]
職業小学校教諭
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千野 敏子(ちの としこ、1924年大正13年〉3月15日[2] - 1946年昭和21年〉8月2日)は、日本小学校教諭第二次世界大戦後の食糧難の中、闇買いを拒否して22歳で死去した[10]。そののち、女学生時代から多くの感想や詩を書き記していた手記「真実ノート」が[11]、旧師の三井為友の手により遺稿集『葦折れぬ』にまとめられて1947年(昭和22年)に刊行され[12]、若い世代に広く読まれるベストセラーとなった[13][14]
生涯
生い立ち

1924年大正13年)3月15日、長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)にて[2]、父・千野俊次と母・のぶの二女として生まれる[15]。父は長く小学校の教師を務めた人物で、母も昔は教師であった[16]。姉、兄、弟の4人きょうだいであったが、兄は幼くして早世し、7歳上の姉も敏子が小学生のときに17歳で死去。弟も敏子と同年の、1946年(昭和21年)春に亡くなっている[17][8]

幼少期について敏子は「私は何も荒んだ事なく極く平和に育てられた」と振り返っている。一方、母や祖母が敏子らを大事にする余り「外へ出して何か間違ひでも出来れば困る」という方針であったため、外へ出て近所の子供たちと遊ぶことは一度もなかった[18]。敏子は、このことは自身に「重大影響があつたと思ふ」とし、「私の元来の性質がどこか積極的で今でも心の底には何かしら激しい所があるやうなのに、少くとも外面は不快活で陰気な社交性に乏しい性格であるのはやはり此の幼児期に家に閉籠つて居たのが原因だと思はれる」と記している[19]

上諏訪町立高島小学校(現・諏訪市立上諏訪小学校)に[8]入学してのちは、「内気な私にも初めてお友達と言ふものが出来て、出来たら嬉しくなつてよく家へ呼んで遊んだ」という。内気な性格ではあったが、千代紙ままごとは嫌いで殆どしたことがなく、隠れ鬼などを好んでしていた[20]。また、体が弱かったため、諏訪高女へ進学してからも小学校時代の教師と再会すると「唯弱い元気のない者」として見られ、閉口することもあったという[21]

この頃から読書熱は旺盛だった[21]。店頭に本の少ない時代ではあったが、両親が教師であったために家には大量の蔵書があったほか、近所に図書館があり、高女時代にはいつも利用していた。また、家事を強いられることもなく、人の出入りの少ない静かな家であったことも、読書に没頭できる環境となったとされる[22]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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