千葉重太郎
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 凡例千葉 重太郎
時代江戸時代末期(幕末) - 明治時代中期
生誕文政7年3月1日1824年3月31日
死没明治18年(1885年5月7日
別名:一胤(かずたね)
墓所雑司ヶ谷霊園東京都豊島区南池袋
官位贈正五位
鳥取藩
氏族千葉氏
父母父:千葉定吉
兄弟重太郎、さな子
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千葉 重太郎(ちば じゅうたろう)は、幕末剣客鳥取藩藩士北辰一刀流桶町千葉道場の創設者・千葉定吉の長男。
生涯
剣術修行

文政7年(1824年)、北辰一刀流桶町千葉道場(小千葉)の創設者・千葉定吉の長男として誕生。妹に千葉さな子などがいる。

幼少より父・定吉から北辰一刀流剣術を学び、嘉永6年(1853年)に父が鳥取藩の剣術師範に就任したため道場を任された。剣士としての力量については説が定まらないが、本家筋にあたる玄武館道場が千葉道三郎の代になって衰退した一方で、重太郎が道場を任された後も桶町道場の人気は衰えず、幕末期は師範の実力が道場の盛衰に直結する時代であったと推測され、この観点からも重太郎の実力のほどがわかる。

この頃、土佐藩士の坂本龍馬が千葉道場に入門しており、龍馬に剣術指南をしたのは主に重太郎であったと考えられる。龍馬を題材にした創作作品によく登場し、それらにおいて明朗快活な好青年として描かれる。また「千葉道場の跡取り」というイメージからか、父共々、鳥取藩士であったことは描かれないことが多い(勝海舟暗殺未遂事件の時には既に鳥取藩に仕官している)。
鳥取藩仕官

万延元年(1860年)、重太郎は鳥取藩に仕官した。重太郎は鳥取藩士として江戸政界に関わる中で勝海舟の開国論に反感を抱き、文久2年(1862年)に勝邸を訪れ、これを暗殺しようとしたが失敗した[1]

また、文久4年(1864年)正月から数ヶ月間、生野の変に敗れた勤皇志士・北垣晋太郎原六郎らを匿い、このことが幕府の知るところとなり道場を探索されそうになった。そのため、重太郎は道場の全員を退去させ、単身、探索方の来場を待つ状態まで追い込まれるが、重太郎の人品を知る老中板倉勝静が「千葉重太郎は不良の徒に非ざるなり。もし浪士を隠匿するあらば、我親しく招致して諭さんとす、今公武の間疎隔を来さんとす、万一追捕の挙に出ては、彼、もとより剣客塾中の徒と、腕の続かん限り相闘わば、まさに大事に至るべし」としてこれを擁護した[2]

戊辰戦争では鳥取藩の河田左久馬や、原らとともに志願農兵隊・山国隊の指導に当たった[2]
明治期千葉定吉と千葉重太郎の墓

明治維新後は鳥取県京都府北海道開拓使官吏として活躍した。幕末期に重太郎に匿われた北垣と原は、明治になり北垣は政治家・官僚(京都府知事北海道庁長官など)、原は実業家となり成功し、彼らは重太郎やその家族を支援した。

明治18年(1885年)に死去。墓は東京都豊島区南池袋雑司ヶ谷霊園に現存している。

明治40年(1907年)、正五位を追贈された[3]
脚注^ 勝の後年の回想では同じ志を持つ坂本龍馬が同行したとされているが、実際には龍馬はそれよりも前に松平春嶽の紹介状により勝の知遇を得ており、龍馬が勝の暗殺を試みたという記述は疑問視されている(龍馬の項目を参照)。
^ a b 『千葉の名灸』
^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.22

参考文献

『原六郎翁伝 上・中・下巻』 板沢武雄、米林富男 共編 1937年

千葉重太郎が登場する作品

『千葉の名灸』(
横浜毎日新聞 1903年8月7日?11月25日連載)


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