ちば こういち
千葉 耕市
プロフィール
本名千葉 治(ちば おさむ)[1][2][3]
性別男性
出生地 日本・東京府東京市(現:東京都)[注釈 1]
出身地 日本・岩手県胆沢郡前沢町(現:岩手県奥州市)[2]
生年月日 (1931-08-13) 1931年8月13日
没年月日 (2001-11-09) 2001年11月9日(70歳没)
血液型O型[4][5][6]
職業声優、俳優、音響監督
事務所同人舎プロダクション(最終)[7][5]
配偶者千田啓子
公称サイズ(時期不明)[7]
身長 / 体重170 cm / 55 kg
活動
活動期間1955年 - 2001年
デビュー作『おやゆび姫』
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千葉 耕市(ちば こういち、1931年8月13日[1][2][8][3] - 2001年11月9日[9])は、日本の男性声優、俳優、音響監督。東京府東京市(現:東京都)生まれ[注釈 1]、岩手県胆沢郡前沢町(現:岩手県奥州市)出身[2]。また一部の作品においては千葉 耕一とクレジットされることもあった。 東京府東京市(現:東京都)[注釈 1]で長男として生まれ、小学校卒業後、一家と共に岩手県胆沢郡前沢町(現:岩手県奥州市)に転居[2]。戦時中も両親は岩手県出身だったこともあり、一家をあげて郷里に疎開[2]。その頃、前沢での2年間の中学在学中に言葉は岩手弁となった[2]。 終戦後は東京に帰郷し、東京都立第七中学校に編入[2]。しかし学力ではとてもついていけず、岩手弁だったこともあり、何か一言を話すと周囲がどっと笑っており、特に国語の時間が一番嫌いだった[2]。励ますように標準語を教えて面倒を見てくれた友人がおり、演劇部が新設されることから「一緒にやろうじゃないか」と誘われ、演劇の道に足を踏み出した[2]。第一回目の公演は『アルト・ハイデルベルクの恋』の主役のカール・ハインリッヒ役を演じていた[2]。その時は男子校だったため、相手役は女子校の生徒に頼み、ラブシーンも演じ、学生の間で大いに話題となっていたという[2]。 東京都立墨田川高等学校時代は演劇部では主役から大道具作り、音楽部に所属してドラムも叩いたり、サッカー部のキャプテンまで務めており、一着のユニフォームがボロボロに破けて、つぎはぎを着ていたため、「雑巾キャプテン」というあだ名が付けられていた[2]。クラブ活動に熱中していたが、ある日、校長から優しく尋ねられて、中学時代の先輩でNHK東京放送劇団に所属していた小山源喜を紹介して紹介状を手にしてNHKに訪ねていた[2]。小山は当時、高校生だという理由で当初は相手にしてくれなかったが、粘りに粘って、カバン持ちとして師事し、NHKのスタジオに通っていた[2]。日本大学芸術学部卒業[2][注釈 2]。 その後、小山が出演していた当時人気の連続ドラマ『向う三軒両隣り』[注釈 3]で来宮良子が演じていた女子学生役が、なんとなく気にしている学生役の「今日は、いいお天気ですね!」のひと言を夢うつつのうちに演じていた[2]。その時の放送謝礼金500円をくれた時には思わず震えていたという[2]。 キリン座[2][3]、ラジオ東京放送劇団2期(後のTBS放送劇団)[2][3][7][8]、土の会[8]、東京アクタープロ[10]を経て、最終所属は同人舎プロダクション[5][7]。 ラジオ東京放送劇団時代は日本大学芸術学部の4年生として在学中だったため、朝は大学へ、午後から深夜にかけてはスタジオへ、という忙しい日が続いていたという[2]。 1953年の夏、入社1年半たった時、初の大役の青春もののメインの役をつかみ、「いよいよこれで飛躍できる」と喜んだのもつかの間、紫斑病におかされてしまった[2]。その時に病床で、演じるはずであった役を他の仲間が演じているのを聴きながら、くやし涙で枕を濡らしていた[2]。半年の闘病生活を続けていたが病状は快方に向かわず、翌年の1月3日、病状が急変し、息が止まり、医師から死亡宣告をくだしていた[2]。その後、霊安室(遺体安置室)に運ばれて、黄泉の国を1時間36分も生死の境を彷徨った挙げ句、息を吹き返したという[注釈 4]。この2日前、お正月だったが、千葉のために7人が血を提供してくれたという[2]。全快後、両親は時間的に規則正しい生活のできる職業に就くことを強く希望していたが、前述のとおり、自分のために血液を提供し、生命を再び与えてくれたこの7人のためにも、自分のできる仕事で精一杯働き、多くの人物たちに生きることの尊さ、楽しさを伝えることで恩返しをすることを決意していたという[2]。
略歴