千葉県の歴史
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千葉県の歴史(ちばけんのれきし)では、千葉県歴史について記述する。
目次

1 県名の由来

2 先史時代

3 縄文から古墳時代まで

4 飛鳥から平安時代まで

5 鎌倉から戦国時代まで

6 安土桃山から江戸時代まで

7 明治から第二次世界大戦まで

8 第二次世界大戦後から現在まで

9 年表

9.1 明治時代

9.2 大正時代

9.3 昭和時代

9.4 平成時代


10 脚注

10.1 注釈

10.2 出典


11 関連項目

県名の由来

千葉県という県名は、1873年明治6年)に木更津県と印旛県が合併して当県が設置された際に千葉郡千葉町県庁が置かれたことに由来する。県庁所在地名と郡名が同じため、そのいずれに由来するかは不明である。また、千葉という地名自体がいつの頃に発生したのかは定かではないが、律令制以前の国造名(千葉国造)や律令制以来の名(千葉郡)に見ることができる。その地名の由来については諸説あるが、一説によると「数多くの葉が繁茂する」の意で、
実り豊かな豊穣の地を示している

たくさんの草木が生い茂る原野だったから

土地と子孫の繁栄を願っての地名

などとも説かれる。なお、『日本書紀』と『古事記』の両書には、応神天皇大和から近江に向かう途中、山城の宇治野の丘で遠く葛野一帯を望んでの国見歌で現れる「千葉の」は数多くの葉の意味で、葛の葉が良く繁栄したことから葛の枕詞として用いられたのだと、契沖以来考えられており、古代人が「千葉」という地名に託した願いを知る上での重要な資料のひとつといわれている(和歌については、以下を参照)。(和歌)千葉の 葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ(訳)千葉の葛野を眺めると、数多くの富み栄える民の家々も見える。国の中でもっとも繁栄したところにも見える

現存の文書中、千葉という地名がもっとも古くに見えるのは、『万葉集』20巻の千葉郡出身の防人大田部足人の詠んだの一首だといわれている(和歌については、以下を参照)。(和歌)千葉の野の 児手柏の 含まれど あやにかなしみ 置きて高来ぬ(訳)千葉の児手柏の葉がまだ開ききっていないように、若くあどけない彼女(娘)が何とも痛々しくて、手も触れずに遠くはるばるとやってきた
先史時代

地殻変動により隆起して半島が形成された。上総の山稜地帯はその名残である。

今から約12万年前は、関東平野のほとんどは海面下で、現在の千葉県は房総半島南部の山脈と銚子周辺の高台が小島として水面上に出ていたのみと考えられる。約2万年前のヴュルム氷期になると、海岸線の大幅な後退と周辺山脈の活発な火山活動などに伴い海面は、現在より、80 - 100mも低くなり、東京湾は盆地(陸地)となっていたとされる。台地から流れ出た水は、最終的に古東京川(現東京湾沖にあった)と呼ばれる大河を形成し、古太平洋へと注いでいたという。富津沖の中ノ瀬は、当時の川中島であり、観音崎から急に水深が深くなっているのは、古東京川の流れがえぐったためではないかと考えられている。縄文時代が始まる約1万年前から気温が上昇し、氷河が溶けると海水面は再び上昇し、現在よりも5 - 10mほど高くなり、関東平野には古東京湾古鬼怒湾(後の香取海)の2つの湾が形成され、島状になっていたとされる。

房総の最初の住人は、約3万数千年前の旧石器時代の人々だと言われている。

千葉県の旧石器時代の人々は、古鬼怒川沿いに石器の原材料を求め北は高原山から南は房総半島の嶺岡山地の間約200km以上にも及ぶ長い領域の間を移動しながら生活を営み、主な狩場である常総台地ではナウマンゾウオオツノシカなどを食料にした狩猟生活を営んでいたと考えられている。そのため、狩猟に使用するための石器などを使用した道具が進化した。石器は、黒曜石サヌカイトを使用したものが著名で、千葉県最初の旧石器時代の黒曜石は、市川市国府台にある立川ローム層等から発見された。千葉県には、石器の原料となる産地が乏しく、高原山や甲信地方中央高地などから運ばれたと考えられている[1][2]

千葉県出土の黒曜石石器の詳細情報は以下を参照のこと。
詳細は「日本列島の旧石器時代#高原山黒曜石原産地遺跡群発見・発掘がもたらすもの」を参照

千葉県の旧石器時代の遺跡は、300数十箇所ほど発見されており、県北部の台地に多い。そして、印西市(旧・印旛村)では、日本初のナウマンゾウの全身骨格が発見され、成田市(旧・下総町)では、ナウマンゾウの頭骨が発見されている(共に国立科学博物館収蔵)。
縄文から古墳時代まで古代の海岸線大賀ハス(古代ハス)香取神宮

縄文時代の遺跡としては、貝塚がよく知られている。縄文時代の貝塚は日本各地に約2300か所[3]を数え、関東地方には、約1000か所が集中している。特に東京湾周辺は、貝塚の宝庫と呼ばれ、約600か所が密集しており、千葉県の東京湾域、利根川流域の台地には644か所[3]ほどの遺跡が見られる。千葉市にある加曽利貝塚が有名で、千葉市若葉区の台地には、加曽利貝塚博物館が建っており、発掘品のほか、野外施設で貝の堆積状態を観察することができる。また、縄文遺跡の落合遺跡東京大学検見川総合運動場)から発掘されたハスの実は発芽に成功し、大賀ハス(古代ハス)と呼ばれ、世界中に株分けされた。

県内では、成田市の荒海貝塚から縄文から弥生時代へ移り変わる頃の籾殻痕がついた土器が見つかっており、イネの栽培が行われていたと推定されている。ただ、千葉県内ではこれまで台地上の発掘調査が多いこともあって、水田跡はまだ見つかっていない。農耕社会に入ると、『ムラ』の形態が変化し、これまでの採集経済に代わり、生産経済が展開されていく。この過程の中で環濠集落が出現するが、千葉県では1979年昭和54年)から行われた佐倉市の六崎大崎台遺跡の発掘で発見されている。遺跡は台地にあり、周辺の低地には、水田が広がり、そこでは技術的に完成された農業が営まれていたと推測されている。環濠集落は、政治的施設や生産工房を府置した政治的軍事的な「城塞集落」で、佐賀県吉野ヶ里遺跡は、前者の数十倍の規模があり、陸橋門柱・柵列や物見櫓が見つかっている。また、環濠内には弥生墳丘墓祭祀施設も備わっていたことがわかっている。

弥生時代末期になると六崎大崎台遺跡の環濠は消滅し、ムラの景観が一変する。台地の北に大型住居を伴ったムラが作られ、南には墳墓を有する大型の方形周溝墓が作られた。こうした変化は、墓がムラの共通空間として認識されるようになったこと示唆している。ムラの首長のあり方が変化し、地方豪族が誕生、社会変動の過程で新たな墓が出現するようになり、古墳時代に至る。

関東では、関西より100年遅れて2世紀から3世紀頃まで、弥生時代となる。房総の古代文化は、黒潮による南西日本との文化交流の影響が見られることから、俗に「黒潮文化」と呼ばれ、地域の文化や風習(例:漁法建築様式等)などにその影響が見られる。

古墳時代の房総半島は、「?国」(ふさのくに。古くは?=麻がよく育ったことに由来、「総」は後世の当て字)と呼ばれた。『古語拾遺』によると、神代の時代に古代豪族の忌部氏の祖である天富命阿波徳島県)から黒潮に乗って渡来、麻を栽培して成功した肥沃な大地が?国で、忌部(斎部)の一部の居住地には、阿波の名を取って安房としたのが起源だとされる。


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