凡例千葉 常胤
『前賢故実』より千葉常胤(菊池容斎筆)
時代平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕元永元年5月24日(1118年6月14日)[1]
死没建仁元年3月24日(1201年4月28日)[2]
享年84[2]
別名千葉介
戒名浄春院殿貞見、涼山円浄院
墓所大日寺(千葉市稲毛区轟町)[3]
官位上総権介、下総権介
氏族桓武平氏良文流、房総平氏、千葉氏
父母千葉常重[1]、石毛政幹娘[1]、海道三郎大夫忠平
千葉 常胤(ちば つねたね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。千葉氏第3代当主。千葉氏を豪族から御家人の地位まで登らしめた千葉氏中興の祖といわれる。常胤以降、一族は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが多くなる。在地領主=武士の政権・鎌倉幕府の創設に努力し、これによって子孫発展の基礎を築いた[5]。まさに関東の在地領主=武士の、そして鎌倉幕府の御家人の、一つの典型である[5]。
千葉市立郷土博物館には彫刻家安西順一が作成した千葉常胤の木像が展示されている[6]。また千葉県青少年総合対策本部刊行の『郷土に輝く人々』という小冊子も、その巻頭に常胤があげられている。このように千葉県・千葉市をひらいた人物として評価されているのである[7]。 桓武平氏良文流千葉氏の一族。父は下総権介・千葉常重。上総広常とは又従兄弟。平安時代末期における下総国の有力在庁官人であった。官途名は千葉介(ちばのすけ)。
生涯千葉常胤の騎馬像『飛躍』
出生
相馬御厨」を伊勢神宮に下総相馬御厨として寄進しその下司職となっていた。しかし、保延2年(1136年)7月15日、下総守・藤原親通は、相馬郡の公田からの官物が国庫に納入されなかったという理由で常重を逮捕・監禁し、常重から相馬郷
こうした事態に対して常重の跡を継いだ常胤は、久安2年(1146年)4月にまず下総国衙から官物未進とされた分を納め相馬郡司職を回復し相馬郷についても返却を実現する。常胤は8月10日に改めてその支配地域を伊勢神宮に寄進し、その寄進状が残っていることからその間の事情が今に知られることになる。
すでに天養2年(1145年)の源義朝による寄進があったが、常胤は「親父常重契状」の通り、伊勢内宮神官に供祭料を納め、加地子・下司職を常胤の子孫に相伝されることの新券を伊勢神宮へ奉じこれが承認された。このことについて義朝の行為は紛争の「調停」であったとする見方もあるが、常胤の寄進状には「源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文」とあり、常胤にとっては義朝もまた侵略者の一人であることが判る[注釈 2]。 以後、常胤は保元元年(1156年)の保元の乱に出陣し源義朝指揮下で戦う。これにより、少なくともこの時点では常胤を義朝の郎党とする見方もあるが、保元の乱での後白河天皇側の武士の動員は官符によって国衙を通じた公式動員であることに注意が必要である。 その後、平治の乱で源義朝が敗死すると、永暦2年(1161年)には常陸国の佐竹義宗(隆義の弟)が前下総守・藤原親通から常重の証文を手に入れ、藤原親盛(親通の子・平重盛側室の養父)とも結んで伊勢神宮に再寄進しこれも伊勢神宮に認められ支配権を得る。これを知った常胤も翌月に再度伊勢神宮に寄進の意向を示した。このため、伊勢神宮側では常胤側の窓口となった禰宜・荒木田明盛
保元・平治の乱
この頃、平治の乱で敗れた源義朝の大叔父にあたる源義隆の生後間もない子が配流されてきたため、常胤は流人としてこれを監督しつつも、源氏への旧恩から、この子を密かに源氏の子として育てた。これが後の源頼隆である。
頼朝挙兵『千葉介常胤像』(千葉市立郷土博物館)
治承4年(1180年)、伊豆国で挙兵した源頼朝が石橋山の戦いに敗れた後に安房国へ逃れると頼朝は直ちに常胤に加勢を求める使者として安達盛長を送った[注釈 4]。『吾妻鏡』によれば、常胤は胤正・胤頼以下の子息とこれを丁重に迎え入れて、盛長の言伝を聞いたものの何の反応も示さない。そこで胤正・胤頼が早急の返事を進めたところ、「自分の心中は勿論その積りだ。ただ、頼朝殿が源氏中絶の後を興されたことを考えると、感涙が眼を遮り、言葉も出ないのだ」と言って、盛長に相模国鎌倉を根拠にすることを勧めたとされる(治承4年9月9日条)。
一方、『源平盛衰記』では、常胤が「一旦上総介(上総広常)と相談したい」と述べたため、盛長が館を出たところ、偶々鷹狩から戻る途中の胤正に出会い、胤正は盛長を館に連れ戻した後に常胤に「上総介(広常)の家臣ではないのだから、相談する必要は無い」と述べ、常胤も参陣の意を述べたとされている[13]。