凡例千葉兼胤
時代室町時代前期
生誕元中9年/明徳3年7月21日(1392年8月10日)
死没永享2年6月17日(1430年7月7日)
別名千葉介
官位修理大夫
幕府室町幕府
氏族千葉氏
父母父:千葉満胤
兄弟兼胤、馬加康胤
妻上杉氏憲(禅秀)の娘
子胤直、胤賢
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千葉 兼胤(ちば かねたね)は、室町時代前期の武将。千葉氏第15代当主。第14代当主千葉満胤の子。妻は上杉氏憲(禅秀)の娘。 父・満胤とともに鎌倉府に仕え、元服時に第3代鎌倉公方足利満兼より偏諱(「兼」の字)を賜って兼胤と名乗る。満兼のもとで、鎌倉府の侍所の役人を務めた。 応永16年(1409年)に満兼が死去した時、それに乗じて親戚関係にある新田貞方・新田貞邦父子[1]による謀反が起きたが、これを事前に鎮圧するという武功を挙げた。同年に第4代鎌倉公方に就任した満兼の嫡男・足利持氏に引き続き仕えることとなる。 応永23年(1416年)、舅の元関東管領上杉氏憲(禅秀)が反乱を起こすと(上杉禅秀の乱)、これに与して父と共に主君・持氏の追放に一役を買った。しかし翌年、幕府軍の反攻を受けて禅秀が自害すると、父と共に幕府軍に降伏した。応永33年(1426年)、父の死により家督を継いだといわれているが、降伏後に父は処罰として隠居させられているに等しい状況だったので、恐らくはこの前後に継いだと思われる[2]。 永享2年(1430年)6月17日、39歳で死去し、跡を長男の胤直が継いだ。
略歴
脚注^ 兼胤の祖母が新田義貞の娘である関係で、貞方と父・満胤が従兄弟、貞邦と兼胤がはとこの関係にある。
^ 大慈恩寺の寺領安堵を応永33年に行っている。『史料総覧』第7編907冊528頁。「大慈恩寺文書」
参考文献
⇒東京大学史料編纂所大日本史料データベース
石橋一展「室町期下総千葉氏の動向―兼胤・胤直・胤将―」(『千葉史学』66号、2015年)
外部リンク
⇒千葉氏の一族
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