本名が同姓同名である女性アイドルグループME:Iのメンバー「山本すず」とは別人です。
千葉 すず
選手情報
フルネーム千葉 すず
国籍 日本
泳法自由形
所属イトマン
生年月日 (1975-08-11) 1975年8月11日(48歳)
生誕地神奈川県横浜市
身長172 cm
体重58kg
血液型B型
獲得メダル
競泳女子
日本
世界水泳選手権
銅1991 パース400m自由形
パンパシフィック水泳選手権
金1995 アトランタ
千葉 すず(ちば すず(本名:山本すず、旧姓:千葉)、 1975年8月11日 - )は、神奈川県横浜市保土ケ谷区出身(実家は仙台)の元競泳選手。専門は自由形。1992年バルセロナオリンピック、1996年アトランタオリンピックに日本代表として出場した。1991年世界水泳選手権400メートル (m)自由形銅メダリスト。シドニーオリンピック直前の選考会である日本選手権で五輪A標準記録を突破して優勝したが、代表選考から外されたため日本人として初めてスポーツ仲裁裁判所に提訴したもののオリンピックに出場することはできなかった。近畿大学附属中学校、近畿大学附属高等学校卒業。 5歳から競泳を始め、小学校5年生の時、400m自由形で日本学童新記録を樹立し、一躍脚光を浴びる。仙台の公立中学校から近畿大学附属中学校に転校と同時に大阪イトマンスイミングスクールへ。1990年、日本選手権で3冠(50m、100m、200m自由形)を達成するなど、国内では無敵を誇り、1991年の世界水泳選手権(オーストラリア、パース)400m自由形で3位に入り銅メダルを獲得(日本女子自由形では世界大会初のメダル)。同年カナダのエドモントンで行われたパンパシフィック水泳選手権では200m自由形と400m自由形で銅メダルを獲得した。 近畿大学附属高等学校在学中の1992年バルセロナオリンピックでは、200m自由形6位入賞、メドレーリレー7位入賞、400m自由形8位入賞、100m自由形9位だった。高校を卒業後、1994年9月にアメリカに留学[1]。1995年アトランタで開催されたパンパシフィック水泳選手権で200m自由形で金メダルを獲得し、翌1996年アトランタオリンピックの有力優勝候補と目された。 しかし、アトランタオリンピック本番では個人種目で決勝に進めず、200m自由形10位、400m自由形13位に終わった。さらにメドレーリレーでも予選落ちとバルセロナオリンピックの成績を下回った。新種目だった800mフリーリレーでアンカーを務めたが、4位入賞に留まりメダル獲得はならなかった[2]。7月26日のテレビ朝日の『ニュースステーション』でキャスターの久米宏の衛星中継を通じたインタビューに千葉は「オリンピックは楽しむつもりで出たんで」「そんなにメダルというなら自分でやればいいじゃないですか」「日本の人はメダル気違いですよ」という趣旨の発言をして論議を呼んだ[3]。 最初の引退後、1997年にアメリカの永住権を獲得[4]。ゴールデンウェストスイミングクラブのコーチとして指導し[1]、2年ほどを過ごした[5]。1998年9月に現役復帰宣言[4]。 シドニー五輪に向けて1999年6月、3年ぶりに日本選手権に出場[5]。100m・200m自由形でそれぞれ当時の日本新記録を更新し復活する[4][5][6]。カナダを拠点に練習を積み、翌2000年シドニーオリンピックの競泳日本代表選考を兼ねた第76回日本選手権に出場。日本水連が代表選考の条件の一つとしていた、国際水泳連盟(FINA)が指定する五輪A標準記録2分0秒54を突破して200m自由形で優勝したにも関わらず、シドニーオリンピック代表には選出されず落選となった[5]。千葉はこれを不服として、スポーツ関連問題を一括して取り扱う国際機関「スポーツ仲裁裁判所」(CAS 本部:スイス・ローザンヌ)へ提訴した。千葉の訴えは全面的には認められなかったものの、裁定では日本水泳連盟側にも選考基準の曖昧さがあったことを認め、訴訟費用の一部負担を言い渡した[5]。シドニー五輪には出場を果たすことなく、10月末で再び現役引退となった[1]。なお、当時千葉は髪の毛を赤く染めていたが、それが古橋広之進の気に入らず、結局出場がかなわなかったとも伝えられた[要出典]。 1991年の世界選手権後、自分の人生に知らない人たちが踏み込んで来るような生活に一変したようで、メディアに違和感を感じたという[7]。1992年、バルセロナ五輪で自己ベストを更新し決勝に進み、目標を達成して千葉は充実していた[8]。インタビューではマスコミにメダルが取れなかったと言われ、自分との温度差に葛藤が生まれたという。同じ大会で金メダルを獲得した14歳の岩崎恭子へメディアの関心が移り、千葉は「残念でしたね」と日々言われるうちに努力や夢が否定されるように感じた[8]。 アメリカへの留学は関係者からは賛同されなかったが、日本の根性論、コーチとの上下関係とは異なるスポーツの姿を知る[8]。
経歴
現役時代まで
水連・メディアとの関係