この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2011年2月)
千田 貞敏(せんだ さだとし、1890年7月22日 - 1944年12月25日戦死認定[1])は、日本海軍の軍人。ビアク島の戦いにて戦死。戦死後、一階級進級し海軍中将。正四位勲二等旭日重光章。
第一・第二連合航空隊司令官の桑原虎雄の下、第十三航空隊司令時には、同時期に第十二航空隊司令に三木森彦がいるなど、海軍航空隊黎明を支えた人物の中心。 鹿児島県出身。府立一中を経て、海軍兵学校40期。海兵同期に、大西瀧治郎、多田武雄、宇垣纏、山口多聞、吉良俊一ら。1921年(大正10年)、海兵同期の大西瀧治郎、吉良俊一、三木森彦らと共に選抜され、センピル教育団の講習に参加。のち横須賀航空隊1期生。1925年(大正14年)から1927年(昭和2年)にかけて、逓信省航空官。日中戦争開戦時以降は海軍第二連合航空隊第13航空隊司令。渡洋爆撃に参戦し、第二次上海事変にて公大飛行場
目次
1 略歴
2 栄典
3 家族親族
4 脚注
5 関連項目
略歴
1938年(昭和13年)3月18日、民間航空増強のために逓信省において航空局改組により新設なった航空局技術部乗員課長に抜擢され、民間操縦士及び機関工の養成にあたった。1939年(昭和14年)10月11日、鹿島海軍航空隊司令、1941年(昭和16年)3月15日、霞ヶ浦海軍航空隊司令を経て、太平洋戦争開戦にて、1942年(昭和17年)11月1日、第14連合航空戦隊司令官に就任。
1944年(昭和19年)5月1日、第28根拠地隊司令官に着任。従来からの島嶼伝いでの「不沈空母構想」による飛行場建設、警備などに携わる。程なくして、第2方面軍司令官・阿南惟幾陸軍大将の方針により到着早々根拠地隊のいるビアク島にて米軍を迎え撃つこととなり、相手米軍の火焔放射攻撃に耐え、1ヶ月あまりの壕での交戦の末、戦死した。
栄典
1914年(大正3年)1月30日 - 正八位[2]
1916年(大正5年)1月21日 - 従七位[3]
家族親族
父は貴族院議員の千田貞暁。弟は千田貞季(陸軍中将)硫黄島の戦いで戦死。
脚注^ 昭和21年7月16日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第26号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072159400 で閲覧可能。
^ 『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。
^ 『官報』第1040号「叙任及辞令」1916年1月22日。
関連項目
第二次世界大戦に関連する人物の一覧
更新日時:2019年9月29日(日)21:19
取得日時:2019/11/10 22:09