千田町(せんだまち)は、広島市中区に位置する町である。ここでは、「千田」を町名に含む地区の総称として用いる。 京橋川・元安川(上流は本川)に囲まれたデルタの最南端に位置する。かつては広島大学をはじめとする多くの学生が学業に励み生活していた市内有数の文教地区として知られていたが、近年の大学移転により学生街としての性格は次第に薄れつつある。また、戦前から多くのRC造建築物が立地していた関係で、広島大学旧理学部1号館を筆頭にいくつかの被爆遺構が現存している。 画像外部リンク 画像外部リンク 宇品港(現在の広島港)を築港した当時の広島県令(現在の県知事)の千田貞暁、あるいは彼に因んで命名された地区内の「千田通り」に由来する[1]。 千田町はもともと藩政期に広島湾頭に造成された新開地(埋立地)である。当時の広島城下国泰寺村と国泰寺沖新開に跨がる位置にあり、村内を通る平田屋川・西塔川の2運河は後年、千田町(旧町名)地区の東西の境界となった(後出)。明治期になって京橋川を隔てた宇品港の築港事業が行われると1885年には村内を横断し市中心部と宇品に至る新道と御幸橋が建設され、新道は当時の広島県知事・千田貞暁に因み「千田通り」と呼ばれるようになった。さらに大正期の1912年にはこの千田通りに現在の広島電鉄宇品線が敷設・開業し交通の整備も進んだ。そして1916年になって国泰寺村から分割されて千田貞暁または千田通りの名に因む「千田町」が新設された。 1902年以降、この地区には山中高等女学校(のち広島女子高等師範学校)・広島高等師範学校に始まって進徳高等女学校(1909年)・県立広島工業学校(1911年)・広島高等工業学校(1920年)・修道中学校(1926年)・広島文理科大学(1929年)などの高等・中等の教育機関が新設・移転により立地するようになった。この結果、千田町は文教都市としての広島を象徴する町となり、この一帯は急速に宅地化するとともに、下宿・書店・飲食店などが立ち並び学生街が形成された。 また地区の南半部には神戸製鋼広島工場、広島電灯千田町発電所が建設、神戸製鋼の撤退後にはその跡地に帝人広島工場が進出するなど工場地区としての発展をみた。このうち広島電灯千田町発電所は、1920年の竣工当時は最新鋭の発電設備を備えており、この発電所の稼働によって広島市内で電灯が一般に普及するようになった。また同年操業を開始した帝人広島工場は一時は約18.000人の工員が勤務するなど大工場として発展したが、1935年の岩国・三原工場新設により一時閉鎖に追いこまれ、以後は研究所のみが存続した。しかし1938年には操業が再開され、戦争末期にはここに本社が疎開してくるなど活気を取り戻しつつあった。 1945年8月6日の原爆投下に際しては、千田町地区はおおむね爆心地から1.5 - 2.5km前後に位置しており、北半部は全焼もしくは全壊、南半部はやや被害は小さかったもののほとんど半壊地域であり、建物疎開や公共機関での勤労奉仕のため動員された学徒も含め多くの人的・物的被害を受けた。
概要
隣接する地区
北 - (東から順に)平野町・南竹屋町・国泰寺町・大手町。
東 - 京橋川をはさんで対岸に皆実町・宇品。
南 - 京橋川・元安川が合流し広島湾へ。
西 - 元安川をはさんで羽衣町・吉島。
歴史千田貞暁 / 町名の由来となった初代広島県知事。.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}}広島の新開地発展図(『概観広島市史』より)。この地区は大半が「国泰寺沖新開」として宝暦3年(1754年)以後の、一部は「国泰寺村」としてそれ以前の開発によることが分かる。1880年(明治13年)の広島市地図広島高等師範学校。1902年にこの地区内(現・東千田町)に開校し、戦前の文教地区としての千田町を象徴する学校であった。1930年頃(昭和5年頃)の廣島市地図。広島高師・高工など現在の広島大学の旧制前身校のほか、広島工業学校(県立工業高校の前身)・進徳高女(進徳女子高の前身)など、現在は地区外に移転している学校が立地していたことが分かる。1939年の千田町地区北半部の航空写真。中央に竣工直後の広島赤十字病院、その右(東)側に広島高師・広島文理大の校地、下(南)方に広島貯金支局、山中高等女学校の校地が見える。なお、この時点では高師の北側から日赤病院の南を通り南大橋へと抜ける広島市道駅前吉島線が開通しておらず、木造橋であった南大橋の架橋位置も現在とは若干異なっている。1945年アメリカ軍作成の広島市地図。"SENDAMACHI"と表記されている。1962年の航空写真。市道駅前吉島線が開通している。1990年の航空写真。広大キャンパスの全面移転完了を控えた時期のものである。
広島県立文書館所有の戦前の絵葉書。戦前、千田町地区に立地していた学校および施設(広島文理科大学本館を除きいずれも現存しない)。
⇒[絵葉書](広島文理科大学・高等師範学校) 広島高等師範学校(着色)。
⇒[絵葉書]((広島名勝)文理科大学) 広島文理科大学。
⇒[絵葉書](広島高等工業学校 正門) 広島高等工業学校。
⇒[絵葉書](広島県立職工学校) 広島県職工学校。のち県立広島工業学校。
⇒[絵葉書写真複製](千田町火力発電所外景) 広島電灯千田町火力発電所(1923年頃)。のち中国電力千田町変電所。
⇒[絵葉書](広島貯金支局) 広島貯金支局。のち広島地方貯金局。
アメリカ国立公文書記録管理局が所有する米軍撮影写真。
⇒Hiroshima aerial A3374千田町から北西方向を撮影。広島文理大本館(E型の建物)・赤十字病院・貯金支局など焼け残った鉄筋の建物が確認できる。被爆後の火災により全焼し壊滅した北半部と比べ、火災を免れた南半部の被害が小さいのが分かる。なお写真の右下近く、文理大の右側を斜めに走っている水路が平田屋川。
⇒Hiroshima aerial A3395皆実町から西方向を撮影。中央の川が京橋川でその対岸が千田町。
⇒Hiroshima aerial 3 Aug 46 A3466千田町から北方向を撮影。
⇒Hiroshima aerial A3396旧制修道中学上空から東方向方向を撮影。写真右(南側)の帝人広島工場が壊滅しているのが分かる。
被爆後(1945年9月)の広島赤十字病院(市設置の説明板)
町名の由来
新開地から「千田町」の誕生まで
文教地区・学生街としての発展
原爆投下による壊滅
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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