千田夏光
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千田 夏光(せんだ かこう[1]、なつみつ[2]1924年8月28日 - 2000年12月22日 本名:千田 貞晴)は、日本の作家

太平洋戦争関連の著作が多く、中でも日本の慰安婦に関する多数の著作がある。
経歴

関東州(現:中華人民共和国)の大連市に生まれる。大連一中を卒業後に東京の日本大学に進学し、在学中の1944年に学徒動員され、配属先の鹿児島県で終戦を迎える。大学に戻ったが1947 年に 中退する。

1950年に臨時雇いの記者として毎日新聞の社会部で働く[3]1957年からフリー作家となる。
生い立ち

曽祖父は貴族院議員千田貞暁、広島の名家で軍人を多く輩出した[4]

述懐[5]によると千田の父親は、南満鉄の社員として大連に渡り、一家 はその収入で裕福な暮らしを送った。中国人の家政婦料理人がおり、三人の姉妹はピアノを習っていたという。父親は後に、不動産業を経営従事しさらに裕福な暮らしをする様になった、ピアノはドイツ製になったと記している。

家には日本軍軍人の関係者が出入りし、幼少期の千田は満洲事変?日中戦争に関わる話を聞いたという。大連の中学を卒業すると東京の日本大学に進学するが学徒動員され、鹿児島県で終戦を迎えたため、幸いに千田自身はソ連の侵攻による混乱を経験しなかった。大連に残った家族は終戦から3年後に「辛酸をなめ乞食同然の姿」で帰国したとあり、天国から地獄に突き落とされた経験をしている。
著作『従軍慰安婦』

1964年毎日新聞発行の写真集『日本の戦歴』を編集時に「不思議な女性の写真を発見し」「この女性の正体を追っているうち初めて慰安婦なる存在を知った」[6]としており、1973年に『従軍慰安婦』という題名で慰安婦についての著作を出版。

1985年に同書の解説を書いた秦郁彦は「著者の千田夏光は1924年生まれ、戦場経験は、新聞記者時代にふとしたきっかけで、このテーマと取り組むようになった。全体像をつかむにはまだ不満が残るが、他に類書がないという意味で貴重な調査報告といえよう。」と当時は評価した[7]

『従軍慰安婦 正編』の中には原善四郎(関東軍参謀)に面会し、「連行した慰安婦は八千人」との証言を引き出したとの記述がある[8]。しかし、原の軍歴に間違いがあったため『正論』や『諸君!』で面会した事実に疑問が呈された[9]
朝鮮人慰安婦強制連行「20万」説「日本の慰安婦問題#慰安婦の総数」も参照

1969年、韓国の日刊紙が以下のように報じる「挺身隊動員を受けた女性が20万人、その内、朝鮮人が5 - 7万」[10][11]

1970年8月14日付けソウル新聞1943年から1945年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国の女性は全部でおよそ20万人。そのうち韓国女性は5?7万人と推算されている[12]

1973年に千田夏光が発表した著書『従軍慰安婦』(“声なき女”八万人の告発)のp.106には、ソウル新聞と同じ数字が挙げられ、挺身隊の名の下5?7万人が慰安婦にされたとしている。『挺身隊』という名のもとに彼女らは集められたのである。(中略)総計二十万人(韓国側の推計)が集められたうち『慰安婦』にされたのは『五万人ないし七万人』とされている[12]女子挺身隊#朝鮮での「挺身隊」と「慰安婦」の混同」も参照

この根拠を調べた在日朝鮮人運動史研究者の金英達(キム・ヨンダル)によると、上記1970年8月14日付けソウル新聞の記事を千田夏光が誤読して典拠したとしている[12]

また歴史学者でアジア女性基金運営審議委員の高崎宗司は、このソウル新聞記事[12]における「5?7万」の推算の根拠は不明であり、官斡旋による強制性のない朝鮮半島からの女子挺身隊は多く見積もっても4000人ほどと主張している[12]

1984年に元東亜日報編集局長の宋建鎬(ソン・ゴンホ)が発表した『日帝支配下の韓国現代史』(風濤社刊)では、以下のように述べている(1969年の報道記録からと見られるという)[10]。これは千田夏光の『従軍慰安婦』と同じ内容である。「日本が挺身隊という名目で連行した朝鮮人女性は、ある記録によると20万人で、うち5 - 7万人が慰安婦として充員された」

このような朝鮮人慰安婦を「20万」強制連行したという言説について、韓国の経済史学者の李栄薫 ソウル大学教授は、「韓国の学者や北朝鮮の代表などが日本の収奪像を過度に誇張している」と批判しており[10][13][14]、これらの韓国・北朝鮮両政府の公式見解について、1940年当時の16歳から21歳の朝鮮女性は125万人であり、これらの数値は正しくないと述べている[13][14][15][16]

1991年朝日新聞では「従軍慰安婦」について、「女子挺身隊の名で戦場に連行された」と報道している。

高崎宗司によれば、それらは「挺身隊という名のもとに彼女ら(慰安婦)は集められた」と書いた千田の著書を依拠しているとしている[12]

韓国の歴史家である姜万吉は、慰安婦問題を取り扱っている団体が『韓国挺身隊問題対策協議会』などという団体名にしているなど、慰安婦と挺身隊の混同について疑義を呈している[12]

1993年、上記数字との関連は不明だが「挺身隊研究会」会長の鄭鎮星 (チョン・ジンソン)ソウル大学教授は「8万人から20万人と推定される慰安婦のうち、絶対多数を占めると思われている朝鮮人慰安婦」としている[17]。なお鄭は「強制連行」を当時の国際条約に従い「『詐欺または、暴行脅迫、権力濫用、その他一切の強制手段』による動員」と定義している[17]

この慰安婦20万という数字は、アメリカの慰安婦像の碑文・慰安婦の碑にも刻まれている(慰安婦の碑参照)。
関東軍特種演習での慰安婦徴集証言について

関東軍特種演習(関特演)において慰安婦が強制的に集められたと、千田は原善四郎元少佐の証言を紹介した[18]。千田は、(後方担当参謀原善四郎元少佐が)必要慰安婦の数は二万人とはじき出し、飛行機で朝鮮へ調達に出かけているのである。ここで、つまり昭和16年には、すでに朝鮮半島は慰安婦の草刈場となっていたことがわかる。実際には一万人しか集まらなかったというが草刈場になった事実は動かせない。

と書いた[19]。また、それ以降のページで原への対面インタビューが掲載されており、著者である千田の「70万人の兵隊に2万人の慰安婦が必要とはじき出した根拠というか基準は何だったのですか」という質問に対して、原がはっきり覚えていないけど、それまでの訓練つまりシナ事変日中戦争)の経験から算出した。
二万人と言われたが、実際に集まったのは8千人ぐらいだった。
集めた慰安婦を各部隊へ配属したところ、中には<そんなものは帝国陸軍にはいらない>と断る師団長が出たのです。ところが、二ヶ月とたたぬうち、<やはり配属してくれ>と泣きついて来た

と語ったと記載している[20]
秦郁彦著『慰安婦と戦場の性』での記述

秦郁彦によれば、当時関東軍参謀部第三課兵站班に勤務していた村上貞夫曹長(当時)が「記憶では3000人ぐらいだった」と証言し、手記も残しているという[21]


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